何も買わずに出る
五月の夜、住宅街、独り

書き手は私、四十代、ひとり暮らし。五月の終わりの夜十時、思い立って散歩に出た。住宅街を一周して、コンビニに寄って、何も買わずに出る。それだけの夜のことを、家に帰ってから少し書き留めておく。

玄関の鍵を回す

玄関の鍵を回した。ドアを引いて、もう一度鍵を回して、ノブを下げる癖がついている。もう何年も、この順番で鍵をかけている。誰かと暮らしていたときは、たぶんこの儀式は、もっと適当だった。出てから「閉めたっけ」と立ち止まることが、ない。これだけは、独りで暮らすうちに上達したことの一つだ。

外に出ると、夜風がほんの少し冷たい。五月にしては、と思う。半袖の腕に薄く触れて、鳥肌が立つほどではない。新緑の匂いが、街路樹の下に溜まっている。昼の匂いとは別のものに変わっている。

住宅街、家族の気配

住宅街は静かだった。静か、とは言っても、無音ではない。家々の窓から、テレビの音がうっすら漏れている。ニュース番組のような、抑えた声。どこかの家でドラマの効果音。別の家からは、子供がぐずる声と、それをなだめる大人の声。寝かしつけの時間帯なのだろう。

家族の気配というのは、こうやって、家の外に半分だけ漏れている。中にいる人にとっては、たぶん意識されない音量で、外を歩いている私には、それが家の中の輪郭になって聞こえる。

私は、それを羨ましいとも、寂しいとも、思わなかった。思わなかった、と言い切ってしまうのは少し嘘で、ほんの一瞬、ある家の二階の窓に灯る暖色のランプを見たとき、何か胸の奥で動いたものはあった。動いた、というだけで、輪郭はない。歩くうちに、また落ち着いた。

コンビニに入る

角を二つ曲がって、いつものコンビニに着いた。最近、二十四時間営業をやめる店が増えた。このあたりでも、駅前のもう一軒は深夜一時で閉まるようになったらしい。ここは、まだ二十四時間。いつまで続くか、分からない。

自動ドアが開いて、明るすぎる照明と、冷蔵庫のコンプレッサーの低い音が、迎えてくれる。レジには店員さんが一人。私は会釈をして、奥の弁当の棚に向かう。

弁当の棚は、夜十時のこの時間、半分くらい空いている。残っているものに、半額のシールが貼られている。一人用のお弁当が、最近どんどん小さくなった気がする。容器の縁が薄くなって、ご飯の量が控えめになって、おかずが二、三品。半額シールが貼られると、一気に手の届く価格になる。

手は伸ばさなかった。今日は、夕飯を済ませて出てきた。買うつもりも、最初からなかった。

何も買わずに出る

飲み物の棚を一往復、雑誌のラックを横目に、入口の方へ戻る。何も持っていない。レジの店員さんと、一瞬だけ目が合う。私が会釈すると、向こうも小さく頷いた。咎める表情ではない。何も買わなかったことを、お互いに、特に何とも思わない。

こういう短いやりとりが、夜の住宅街のコンビニには、ときどきある。買わなかった客と、レジの店員と、なんでもない目礼。お互いさま、と言ってしまうと大げさだが、たぶん、その種類の何かである。

自動ドアが開いて、外に出る。何も買わずに出ると、来たときより、ほんの少しだけ手が軽い気がする。手が軽いというのも変な話で、最初から何も持っていなかったのだから、軽くなりようがない。それでも、軽い。

親からの LINE

歩き始めて、ポケットのスマホを取り出した。さっきから震えていたのは、知っていた。LINE の通知。母からだった。

「元気にしてる? こっちは庭のつつじが咲いた」。続けて、つつじの写真。続けて、「無理しないで」。

私は画面を見て、既読をつけずに、スマホをポケットに戻した。返信は、明日の朝でいい。今返すと、たぶん、すぐにまた次のメッセージが来る。母は、私が起きていると分かると、嬉しくて、止まらない。止まれない、のほうが正確かもしれない。父を見送って、ひとりで暮らしている家の夜は、長い。

既読をつけないのは、冷たいのではなく、私なりの距離の取り方だ、と自分に言い聞かせる。言い聞かせている時点で、たぶん、半分は冷たい。半分本当、半分嘘、というやつかもしれない。

独身税のニュースを、昼間にネットで見た。正式な税ではなくて、社会保険料の改訂の話を、誰かがそう呼び始めて広まった、というだけのことらしい。それでも、その語感は、夜の散歩の途中で、ふと思い出すくらいには、刺さった。私は、独りでいることに、追加料金を払う側の人間として、これから歳を取っていく。母も、たぶん、別の意味で同じ側にいる。

推しが引退した日

街灯の下で、別のことを思い出した。三年前の春、私が長く追いかけていた人が、活動を辞めた。引退、という言葉を、本人は使わなかった。ただ、これからは別の場所で別の生活をします、と書いた一文だけが、最後の投稿だった。

私は、その文を何度も読んだ。何度読んでも、増える情報はなかった。それが、その人の編集だった、と今は思う。引退の日に、本人が見せたかったものは、その短い一文だった。私が見たかったのも、たぶん、それだった。

推し活の終わり方には、色々ある。相手が辞める、自分が冷める、生活の優先順位が変わる。私の場合は、相手が辞めた。辞められた側の私は、しばらく手持ち無沙汰になって、夜にコンビニに寄る回数が増えた時期があった。何かを買って帰る回数も、何も買わずに出る回数も、両方増えた。

三年経って、振り返ると、あの時期の私は、推しという他人の生活を借りて、自分の夜を埋めていたのだと分かる。借りていたものを返したら、その分、自分の夜が、自分の手元に戻ってきた。戻ってきた夜は、最初は重たかった。今は、こうやって散歩に出られる程度には、軽くなっている。

独りでいる練習

住宅街を半周して、自分の家のほうへ折り返す。歩きながら、ふと、独りでいる練習をしているのかな、と思った。思って、すぐに、違う、と打ち消した。

練習というのは、いつかの本番のために、今を仮置きすることだ。私の夜は、仮置きではない。今夜のコンビニで何も買わなかったことも、母の LINE に既読をつけなかったことも、街灯の下で三年前の春を思い出したことも、全部、本番である。

独りでいる練習をしているわけではない。ただ、独りでいる。練習しなくても、ひとりで、夜十時の住宅街を歩けるようになった。歩けるようになった、というのも、たぶん少し違う。歩けないと思っていた頃が、最初からなかったのかもしれない。

独りで生きていくのが平気な人間だ、と胸を張るつもりもない。胸を張るほどのことではないし、平気でないときもある。今夜は、たまたま平気だった。明日の夜は、分からない。

自分の生活も、たぶん、誰かの目にはきれいに編集されて見えている。母には「元気にしている子」、職場の同僚には「家庭のしがらみがなくて身軽な人」。本当のところは、編集の手前にしかなくて、それは、こうやって夜の住宅街を歩いている時間の中に、薄く溜まっている。

玄関の鍵を回す

家に着いた。玄関の鍵を、出るときと同じ手順で開けて、入って、また閉める。ドアを引いて、もう一度鍵を回して、ノブを下げる。出るときと、ほとんど同じ動作。違うのは、外の冷たい風を、もう浴びていないことだけ。

靴を脱いで、廊下の灯りをつける。冷蔵庫を開けて、麦茶をコップに注ぐ。ポケットのスマホを取り出して、母への返信を、二行だけ書いた。「こっちは元気。つつじ、きれいだね」。送って、画面を消した。

明日の朝、また既読がつくのを母は待っているだろう。待っている人がいる夜と、待っている人になる夜が、たぶん、これから先、交互に来る。今夜は、待たれる側だった。それで、十分だった。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。