座布団の、注文
布団より小さく、布団より長持ちし、布団より人前に出る

ドモトカズエ(58歳・ふとん店の打ち直し職人36年)

布団の注文は、その家の眠りの話だ。けれど座布団の注文は、その家の事情の話になる。布団は誰にも見られず、夜のあいだだけ人を受け止めて、朝には押し入れに消える。座布団は違う。客の前に出て、人の目に晒され、家の格を語ってしまう。だから座布団の注文には、布団にはない緊張が、いつもどこかに漂っているのだ。

うちで作る座布団には、判がある。銘仙判、八端判。判というのは寸法の決まりのことで、銘仙判は少し小さく、八端判は大ぶりで、寺や床の間の正客に出すのはたいてい八端判だ。判を聞けば、誰のための座布団かが、半分わかる。客は寸法の名前を知らないことが多いから、「どなたが座られますか」と私が訊くと、その家の事情のほうが、先に口から出てくる。

いちばん多いのは、法事の五枚組だ。「親戚が集まるので」。そう言って、五枚、柄を揃えて注文される。五枚の柄合わせは、布団の比ではない。一枚ずつ裁つと、同じ反物でも柄の出方が微妙にずれる。五枚を畳に並べたとき、模様がちぐはぐにならないよう、反物の上で柄の位置を測りながら裁つ。法事の座布団は、並べて初めて仕事になる。一枚では、まだ座布団ではないのだ。

来客用の二枚、というのもある。「急に必要になって」。たいていは、納期を急がれる。二枚だけ、明日にでも、と。そういうとき、客間というものが、その家からもうほとんど消えかけていることが、私にはわかる。ふだん人を上げない家に、急に誰かが来ることになった。その慌てが、二枚という半端な数に出ている。座布団は、その家の客間の在り方を、静かに映し出す鏡なのかもしれない。

座椅子の時代になって、座布団は減った。床に座らず、背もたれに寄りかかる。座布団の上にあぐらをかいて長っ尻をする客も、めっきり見なくなった。それでも座布団がなくならないのは、座布団が、ただの敷物ではないからだろう。人を迎えるという気持ちの、かたちなのだと思う。

打ち直した布団の綿は、座布団に回すことがある。布団一枚ぶんの綿から、座布団が五枚とれる。へたって布団には戻せない綿でも、座布団なら、まだ十分に働ける。薄く片寄った綿を、座布団の小さな枠に合わせて配り直すと、布団では終わっていた綿が、もう一度ふくらむ。布団としては死んだ綿が、座布団として生き返る。綿の、第二の人生だ。

寺からは、大口が来る。本堂の座布団を、百枚。紋を入れ、判を揃え、房を結ぶ。百枚を同じ綿の量で詰めるのは、一枚ずつ目方を量らないとできない。多すぎれば畳に座ったとき尻が落ち着かず、少なすぎれば底が固い。百枚すべてを同じ沈み方にする——それが、寺の座布団の難しさだった。納期は決まっている。法事の前には、必ず仕上げる。

座布団には向きがある。房の付いた角が手前、縫い目のない辺が正面。客は時々、これを私に訊く。「どっちが前ですか」。私は、縫い目のない、すっと通った辺を正面にしてください、と答える。座布団の作法を答えるのも、座布団屋の役目のうちだ。客間が消えていく時代に、それでも、向きを気にする人がいる。

客間は、年々消えていく。それでも、法事の前になると、座布団の注文は来る。人が集まり、座り、また散っていく。その短い時間のために、座布団は誂えられる。座布団とは、客間の記憶なのだ。家から客間が消えても、人を迎えた記憶だけは、座布団のかたちで、こうして残り続けていくのだろう。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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