核は強い。「届ける先がなければ、作る量が成り立たない」という休業の経済的根拠、火曜休みの魚屋が月曜にうちの厚揚げを買い、こちらは火曜の前に魚を買うという商店街の相互運用、そして日曜の夜に大豆を水へ浸けて翌朝を決める浸漬の時間。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、静けさと湯気の書き割りで情緒を補強し、最終段で「休むことも仕事のうち」と全部を解説して回収してしまっていることだ。豆腐屋は温度と時間で断定する職業だ。その人物の文が「思う」で薄まっているのは、設定と矛盾している。
「休むことも、仕事のうちなのだ。(中略)すべては作りつづけるための仕組みなのだと、いまでは思う。」
エッセイの主題を、最終段で主題文として書いてしまっています。「休むことも仕事のうち」は、どの自営業者の回想の末尾にも貼れる汎用シールで、豆腐屋である必然がない。本文がすでに、配達先の休みと浸漬の時間と相互の買い物で「休むことの内実」を見せている。それを抽象語で言い直すたびに、見せたディテールの値打ちが下がる。読者が自分で受け取るべき結論を、作者が先に口にしてしまっている。
「窓の外はまだ青暗くて、表通りはしんとしている。」/「湯気のない店は、どこか所在なげに見える。」
青暗い窓、しんとした通り、所在なげな店。静けさを情緒で調達しています。この書き手が本当に二十八年その店にいたなら、日曜の朝に立つのは「しんとした通り」ではなく、平日なら今ごろ鳴っている釜の点火音や、にがりを溶く桶の音が「無い」という具体の欠落のはずです。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。
「品質と体の両方を守っているのだと思う。」「二十八年という時間が横たわっている気がする。」「妙にしみじみしてしまう。」
この語り手は、豆乳の艶で出来を言い当て、揚げ油の音で引き上げを決め、浸漬の時間を季節で断定する人物です。温度と時間で言い切ることで生きてきた。その人物の回想が「〜と思う」「〜気がする」で満ちているのは、保険をかける作者の語尾であって、エグチケンタロウの語尾ではない。断定で生きる職業の人に、留保語尾は似合わない。
「大豆を水に浸ける。浸漬の時間が、翌朝の豆腐を決める。(中略)夏は短く、冬は長く。」
核心であるはずの浸漬が、概念のままです。「夏は短く冬は長く」は教科書の記述であって観察ではない。実際に二十八年やってきた人間なら、数字が一つ出るはずです(夏は八時間、冬は十八時間、梅雨はこの日数で水が悪くなる、桶に張った水が翌朝どう濁るか)。豆を水に注ぐ動作も「ひたひたに注ぐ」で止まっている。乾いた豆が水を吸う音、桶を持ったときの重さの変化——日曜の夜にしか起きないその手触りが、書かれていません。
「日曜に作らないことで、私はたぶん、品質と体の両方を守っているのだと思う。」
「品質と体を守っている」と要約してしまうと、その手前で見せるべき具体——日曜もやれば手が荒れ、荒れた手が豆腐の出来に出る、という職業の因果——が、抽象語に吸い込まれて消えます。「たぶん」「のだと思う」の二重の保険も効いていない。守っている内実を動作で見せれば、要約はいらない。
「誰も口に出して決めたわけではないのに、商店街全体が、互いの休みを縫うようにして回っている。」
この一文は、昭和ノスタルジーのナレーションにそのまま使えます。せっかく直前で「火曜休みの魚屋が月曜にうちの厚揚げを買い、こちらは火曜の前に魚を買う」という、豆腐屋にしか書けない具体を出しているのに、それを「縫うようにして回っている」と詩的に言い直して台無しにしている。具体の隣に汎用の感慨を置くと、具体まで安く見える。
「ああ、この鉄でうちの豆腐はできているのだ、と妙にしみじみしてしまう。」
毎週日曜に釜を掃除している人間が、自分の釜の地肌に「妙にしみじみ」するでしょうか。二十八年こすってきた手なら、出てくるのは感慨ではなく、こびりついた豆乳の膜が落ちる手応え、束子の当たりが変わる箇所、去年より深くなった傷の一つのはずです。職業の手つきで嘘をつくと、それまでの具体まで疑わしくなる。日曜にしかできない掃除という良い着眼が、情緒で締められて死んでいます。
残すべきは四つ。「届ける先がなければ作る量が成り立たない」という休業の根拠、火曜の魚屋と月曜の厚揚げの相互運用、日曜の夜の浸漬が翌朝を決めること、そして月曜に二日ぶりの火を入れる最初の湯気。削るべきは、青暗い窓としんとした通りの書き割り、「〜と思う」「〜気がする」の留保語尾、最終段の「休むことも仕事のうち」という主題解説。改稿では、浸漬に数字を入れて職業の根拠を立て、釜掃除は感慨ではなく手応えで書き、最終段の要約は丸ごと削って月曜の湯気で終えてください。意味は動作と数字が運ぶ。「思う」が運ぶのではない。