核は強い。豆腐より先に客が水を見ているという商売の事実、父の「水を見れば店が分かる」、売れ残りを翌朝の厚揚げに回す店の循環。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、朝靄と湯気の書き割りで場面を立ち上げ、最終段で全部を解説して回収してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、豆乳の艶で出来を言い当てるという温度と手触りの人を語り手にしながら、肝心の場面で「〜と思う」「〜だろう」と逃げていること。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「水を見れば店が分かる——あの一言が、私をいまの私にしてくれたのだと思う。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、エグチケンタロウである必然がない。直前で父の言葉を再掲し、それを主題として解説してしまうので、読者に渡すべき余白を作者が先に埋めている。豆腐屋の話なのに、最後だけ誰の手も写っていない。
「朝靄の残る四時の仕込み場には湯気が立ち上り、釜からは大豆の甘い匂いが静かに満ちていた。」
朝靄、湯気、甘い匂い、静けさ。三点セットで「情緒ある町の作業場」を安く調達しています。湯気が立ち上って甘い匂いが満ちる——これは豆腐屋を見たことのない人間が思い描く豆腐屋であって、二十八年その場に立った人の目ではない。本当にそこにいたなら、出てくるのは靄ではなく、釜の縁にこびりつく湯葉か、床の水はけか、ボイラーの音のはずです。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。
「父の手は、同じ水に入れても、たぶん違うものを感じていたのだと思う。」「違うのは、たぶん水と、手の数だ。」
この語り手は温度の人です。手を入れた水の温度を数字ではなく感じで決め、豆乳の艶で出来を言い当てると自分で書いている。その人物が、水のことを「たぶん」「と思う」で語るのは矛盾です。父が何を感じていたかは想像でいい、しかしそれを「たぶん違うものを感じていた」と霞ませた瞬間、語り手自身が何を感じるのかも信用できなくなる。断言を避ける作者の保険が、職業の確かさを殺している。
「私はその朝、初めて水に手を入れた。冷たかった、としか言えない。」
「冷たかった、としか言えない」で逃げている。これは謙遜のふりをした手抜きです。豆乳の艶を見分けると豪語する人物なら、初めて触れた水の冷たさにこそ言葉があるはずだ——指の付け根まで来る冷たさか、抜いたあとに手が赤くなったか、栓を抜いた直後の水と張ったばかりの水で温度がどう違うか。さらに「にがりの打ち方、寄せの時間、そういうものは後から覚えた」と一行で流すが、にがりの打ち方が一行で済む職人はいない。打つ速さ、温度、寄せが始まる合図。職業の手つきが書けていないので、水の話まで観念に見えます。
「豆腐は、固める前の豆乳の艶でだいたい出来が分かる。にがりを打つ前の、湯気の立つ豆乳の表面が、てらりと光るかどうか。」
これは第一稿でいちばん良い観察です。だからこそ、惜しい。「水を見れば店が分かる」と「豆乳の艶を見れば出来が分かる」は、同じ“見て言い当てる”という一つの能力の表と裏なのに、別々の段に放置され、最後まで結ばれない。客は水を見て店を信じ、職人は豆乳を見て豆腐を信じる。この対称をクライマックスに置けば、父の一言を解説しなくても主題は立ちます。せっかくの装置を、飾りのまま終わらせている。
「店の中で、豆腐は静かに循環している。」「あの朝、初めて水を抜いた日から、私はずっと水の観察者になった。」
前者は、直前で「残った豆腐は捨てない。翌朝、厚揚げや油揚げにして、二度揚げして売る」と動作で書いた直後に、同じことを「循環している」と抽象語で言い直す蛇足です。後者の「水の観察者になった」は、自分で自分にタイトルを付ける行為で、いちばん白ける。観察者かどうかは、観察の中身が示すべきで、宣言するものではない。エッセイの主題を主題文として書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。
「むかし祖父の代には、ラッパを鳴らして売り歩いていたという。その音を、私は知らない。」
知らない音を、わざわざ「私は知らない」と書いて余韻にする——これは町の豆腐屋ノスタルジーの既製品で、語り手の体験ではなく、読者の郷愁に寄りかかっている。知らないなら出さなくていい。出すなら、誰から聞いたどんな話か、祖父のラッパが今どこにあるか、一つでも実物に触れること。同様に「閉店間際の水槽は、朝の張りを失って、どこか疲れて見える」も、水槽が疲れて見えるのは人間の感傷で、温度の人の観察ではありません。
残すべきは三つ。客が豆腐より先に水を見ているという商売の事実、父の「水を見れば店が分かる」、そして売れ残りを翌朝の厚揚げに回す循環。さらに「豆乳の艶で出来が分かる」という観察は、この書き手の最大の武器だから、飾りではなく構造に使うこと。削るべきは、朝靄と湯気の書き割り、「たぶん」「と思う」の留保、「水の観察者になった」という自己命名、知らないラッパの音。改稿では、客が水を見る/職人が豆乳を見る、という同じ一つの目を一本の線でつなぎ、父の一言は解説せず動作で受けてください。意味は、抜いた水の温度と、てらりと光る豆乳が運ぶ。説明が運ぶのではない。