エノキダタクト(51歳・種苗店主29年)
四月になると、店の朝が変わる。種だけの季節は静かだったのに、苗が来ると、店先に春の息吹が満ちはじめる。市場からのトラックが来るのは六時前だ。荷台の幌をあけると、緑が段になって積んである。トマト、ナス、キュウリ、ピーマン。私はまだ眠い目をこすりながら、その緑を受け取りにいく。
苗はトレイに並んで来る。一トレイに二十四ポット、あるいは四十八。降ろすときは、トレイの底を両手で支える。横から持つと、ポットがずれて、根が動く。根が動いた苗は、その日のうちに葉が萎れる。だから底を、すくうように持つ。これは父に教わったというより、何度か苗を駄目にして、手が覚えたことだったように思う。
降ろし終えると、最初の一回の水をやる。ホースの先を細くして、トレイの上を端から端へ、ゆっくり流す。市場から店までの間に、苗は少し乾いている。土の表面が白っぽくなっているのが、乾きの合図だ。最初の一回は、たっぷりやる。葉ではなく、土に。葉に水を溜めると、日が差したとき、その水滴がレンズになって葉を焼くことがある。朝の水やりは、一日でいちばん大事な仕事なのかもしれない。
店が開くと、客が苗を見にくる。見ていると、買い方で園芸歴がだいたい分かる。慣れた人は、まず葉の裏を見る。裏に小さな虫や、白い粉がついていないか。次に茎を見る。指で軽くつまんで、茎が太くて、節と節の間が詰まっているものを選ぶ。間延びした苗は、日の足りないところで育っている。何も見ずに、手前から順に取っていく人もいる。その人の畑は、たぶん見なくても分かる。
売れる順番は、だいたい決まっている。トマトが先で、ナスが後だ。トマトは誰でも作りたがる。赤くなるのが分かりやすいし、子どもが喜ぶ。ナスはひと足遅れて売れる。理由はよく分からないが、二十九年見ていると、毎年そうなのだ。だから入荷も、トマトを厚く、ナスを薄くする。客の畑は見ていないのに、何が売れるかは、なぜか分かる。
霜の予報が出た朝は、客に「まだ植えるな」と言う。せっかく苗を買いにきた人を止めるのだから、その日は売り上げが落ちる。それでも止める。買って帰って、その晩に霜が来れば、苗は一夜で枯れる。枯らした客は、来年こちらに来ない。売り上げより、枯れないことのほうが大事だ。それが種屋というものなのだと、私は思っている。
夕方になると、見切りのワゴンを出す。売れ残って、少し間延びしたもの、葉先が傷んだもの。半額にして、表に出す。どこで値を下げるかは、毎日少し違う。葉の色、茎の張り、明日まで保ちそうかどうか。明日には売り物にならないと見たものだけを、その日のうちに下げる。判断は、その苗の一日先を読むことに似ている。
それでも残る苗がある。連休が終わると、トレイには売れ残りが点々と残っている。その行き先は、私の畑だ。店主の畑は、売れ残りの畑である。店で選ばれなかった苗が、私の畝に植わっている。間延びしたトマト、虫のついたナス。客が手に取らなかったものたちが、私の夏の収穫になる。
連休の最終日、店を閉めるころには、苗の台に空のトレイが積み上がっている。プラスチックの、緑色の、軽い四角。あれだけ緑で埋まっていた台が、空になる。私はそれを重ねながら、今年も春を売り切ったのだと思う。育つ予定を、また一年ぶん、客の畑へ送り出したのだ。苗の朝は、こうして毎年、空のトレイの山で終わる。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。