卒業証書の、三月(第二稿)
名入れの年度末、式の朝に自分はいない仕事

フカクサアン(51歳・筆耕士29年)

二月の半ばを過ぎると、学校から段ボールが届く。白い証書用紙の束と、卒業生の名簿が一綴り。付箋に、百八十四名、三月五日納め。式はまだ先だが、私のところには、いつも紙が先に来る。

いちばん大事なのは、名簿そのものではない。学校が判を押した原本との照合だ。電算の名簿、卒業台帳、担任が手で直した一覧——三種類が来ることもあり、どれかが古い。書く前に、私は三つを机の上で突き合わせ、食い違う行に付箋を貼り、学校に電話で確かめて、原本を一つに決める。一字でも違えれば、その子の名前ではなくなる。筆を持つのは、原本が一つに決まってからだ。

名簿を繰っていくと、年々、手元の困りごとが変わってきた。ふりがなの添えられていない行が、二十九年前は数えるほどだったのに、いまは三、四割が、ふりがな無しでは一枚も起こせない。同じ「はると」でも、当てる字が一つの名簿の中で散る。画数が増えて、名前のほうが姓より大きく見えてしまい、割り付けの罫を引き直す回数も増えた。親がその一字に込めたものを、良いとも悪いとも言わず、私はただ、正しく起こす。それだけだが、それが年々、手間になっている。

百八十四名の中に、佐藤が七人、鈴木が九人いる。同じ姓を、同じ字で、何十枚と続けて書く。怖いのは飽きではない。慣れだ。慣れると、九人目の鈴木の「木」の右払いが、自分でも気づかぬうちに伸びる。一枚目と九枚目を、同じ字にしなければならない。だから同じ姓が続くときは、あえて間に別の行を挟む。手癖が固まる前に、別の字で手をほどく。

証書用紙には、予備がほとんどない。学校が刷るのは、卒業生の数にわずかな予備を足しただけ。一枚に一名。書き損じれば、その一名分は、もう一枚しかない。毛筆には修正がきかない。最後のはねが撥ねすぎた、墨が一滴落ちた、それだけで、世界に一枚しかないその子の用紙が一枚減る。予備が尽きれば、刷り直しを待つあいだ納期が遅れる。残りの予備の枚数を、私はいつも頭の隅で数えながら書いている。

書き上げると、納品の前に、読み合わせがある。学校の先生と二人、名簿を読む人と、証書を繰る人に分かれる。「さとう、はるか」「さとう、はるか」。声と紙が合うたびに、先生が名簿に鉛筆で点を打つ。次の一名へ。たった一字のために、二人がかりで、半日かける。先生の鉛筆の点が、名簿の左の余白を、上から下へ埋めていく。

納めれば、あとは私の手を離れる。三月のある日、体育館で、一人ひとりが壇上に呼ばれ、校長の手から証書を受け取る。その一瞬のために、私は何週間も机に向かっていた。けれど、その朝、私はそこにいない。手渡される一瞬を、私は一度も見たことがない。見たことのないその一瞬が、書いている最中、ふいに筆先に浮かぶ。浮かんだ、と気づいた手が、わずかに止まる。私が筆を持ち直すのは、いつもその時だ。

三月が終わると、指の関節に、同じ字を何百と書いた疲れがたまって、夜になると重い。四月になると、依頼がぱたりと途切れ、机の上が急に静かになる。電話も鳴らない。墨を磨る必要もない。私が書いた百八十四の名前は、いまごろ、どこかの家の額の中で、私の知らない壁にかかっている。その静けさの中で、私はもう、次に届く段ボールのことを、少しだけ考えはじめている。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。