全体要旨:核となる観察「『普通』は客の口では分析対象、義母の口では終止符。同じ語の二つの機能」は強い。さらに「妻の口でも同じ機能で動く」まで広げる構成も狙いどおり。だが、語を二重三重に解説するカードが連続し、「客の口」「義母の口」「妻の口」の比較が機械化して読める箇所がある。義母自身の身体性は最低限確保されているが、踏み込みを止めた瞬間のタカハシ側の身体感覚はまだ薄い。前々作・前作の延長で「シートを開きかけた」結末も、繰り返しの感が出始めている。
客の面談で「普通」という語が出ると、私はメモの隅にチェックを入れる。基準なき名詞。「普通の家庭」「普通のサラリーマン」「普通に暮らせれば」。出た瞬間、その客の自己定義が表に出ている。
客の口の話と義母の口の話を比較するために、客側の手順を細かく書きすぎている。読者は「客なら踏み込むが、今日はしなかった」を最初の食卓カードで既に理解している。チェック・基準なき名詞・例の三連・可処分所得の率まで並べると、解説のための解説になる。客側の描写は半分でいい。「普通」の三例も二例で足りる。
客のそれと違って、踏み込みを許す入口ではなく、終止符のほうだった。(中略)同じ語の二つの機能が、一日の中で動いた。
「入口/終止符」「二つの機能」と言葉で締めくくっていて、観察を読者に委ねていない。これは前作#1で批評された「①機会費用ベース、②心の所在ベース」の式化と同じ手癖。発見を読者の頭の中で起こさせるためには、ここで一段語を引いて、「私はメモを取らなかった」だけで止めるか、義母の声のかすれと、テーブルでの動作の対比だけで読ませる手がある。
これらを玄関の三和土で出すのは、家族の作法に反する。
「家族の作法」は便利すぎる収束語。便利すぎる語は、書き手が考えるのを止めるサインでもある。タカハシは何の作法を、なぜ守ったのか。「義母が次に私たちを呼ばなくなる可能性」「妻が義母の前で居場所を失う可能性」など、彼の頭で実際に動いた損得勘定を一行入れたほうが、観察が立つ。前作#1での「壊しそう」の感傷指摘と、構造が同じ。
私が職業的に観察してきた「普通」が、義母の口でも妻の口でも、同じ機能で動いていた。私の家にも、玄関にあたる三和土がある、ということだった。
このカードの最大の発火点は、妻の「うちのことだよ」の四字。そこで黙る、というのが正解で、地の文で「同じ機能で動いていた」「玄関にあたる三和土がある」と言い直した時点で、発火が消える。読者が頭の中で「あ、妻の口でも」と気づく前に、書き手が答えを言ってしまっている。最後の一文(玄関にあたる三和土)は、第二稿で削るか、別カードに退避させるか、どちらかにすべき。
シートを開く動きそのものが、玄関で受け取らないと宣言されたものを、別の机で受け取り直そうとしている動きだった。前にも同じ机で、同じ動きをしたことがある。
「机の前でシミュレーションを開きかけて閉じる」は#1の発火と同じ振付。シリーズ中盤で同じ振付が再演されると、読者は「またか」と感じる。#7としての固有の振付が要る。たとえば「シートを開かずに、妻の風呂上がりを待った」「義母の家から持ち帰ってきた漬物の小瓶を冷蔵庫の前で開けた」など、職業の机に戻らない動きで終わると、#1とのコントラストが効く。「机の角度がほとんど同じだった」の自己照射は、#1批評で指摘した「最終回先取り」に近い危険もある。
義母が、テーブルの端を指で押さえながら、遺言の話を出した。(中略)三和土の段差の上に立って、片手で柱に触れて、もう片方で私たちを送る形になる。
動作は具体に書かれていて、ここは禁則を回避できている。ただ、「指で押さえる」「柱に触れる」と、二度とも「触れる」系の動作になっていて、義母の身体所作のレパートリーが二つしかないように見える。食卓のほうの動作は、別の系統(茶碗を持ち上げる、漬物を箸で起こす、目線が一瞬上がる、など)に振り替えると、玄関の「触れる」が立つ。
聞き返されることを、半分期待していた。
これは内面の解説。書かなくても「一度だけ言った」「妻はフロントガラスのほうを向いたまま返した」で、読者は十分に空気を読む。「半分期待」は、書き手が読者を信頼していない徴候。前作#1批評の「観察者として読者を信頼していない」と同じ系統。
残す:玄関での義母の発語(「普通」のあとの一拍と、声のかすれ)、車中の妻の四字「うちのことだよ」、煮物が二倍に増やしてある冒頭、客の口での「普通」の処理手順(簡略化したうえで)。
削る:「同じ語の二つの機能が、一日の中で動いた」の式化、「家族の作法に反する」の収束語、「玄関にあたる三和土がある」の地の文での答え、「半分期待」の内面注釈。
加える:踏み込みを止めた瞬間のタカハシ側の身体感覚(喉、箸、目線)、義母の食卓での動作系統の差し替え、結末を「机に戻らない」動きに振り替える可能性の検討。