論旨は明快だが、明快すぎて、冒頭で見えた結論を最後までなぞってしまっている。強いのは宮沢賢治の引用で、自前の文章はその引用の精度に追いつかず、抽象語と文明批評で水増しされる場面が多い。とくに「知覚」「解像度」「分節」といった便利な上位語が、観察の不足を覆ってしまっている。引用は残すべきだが、残すならなおさら、その周りの説明を痩せさせ、具体の差だけで読ませる必要がある。
「賢治の文章では、音や動きが場面の数だけ枝分かれし、読者の耳と皮膚へ別々に届く。これに対してSNSやLINEでは、『ぴえん』『おぴょん』のような短い記号が感情全体を一括処理する。」
冒頭で勝負がつきすぎている。賢治は豊か、SNSは貧しい、という対立を最初に宣言したせいで、以後の段落はすべて予定調和の証拠出しになる。読者は途中で何も裏切られないし、発見も修正も起きない。せめて現代側に一度は強い反例を出し、そのうえでなお賢治のほうが細かい、と詰めないと論が生きない。
「読者の耳と皮膚へ別々に届く」「知覚の窓口が多い」「場所が鳴り、物が揺れ、材質が主張する」
こういう言い回しは一見それらしいが、実際には観察を足していない。感覚器官、窓口、材質の主張といった抽象的な叙情装置を並べると、文章は濃く見えても、どの語がどう効いているかは曖昧なままだ。人間が書いた鈍い具体より、生成文っぽい滑らかな比喩のほうが薄い。引用が十分に強いのだから、自前の比喩は半分以下でいい。
「かなりはっきり見える」「だいぶ山奥の」「ここではさらに鮮明である」「しばしば省略される」「かなり露骨に現れている」
副詞と留保が多く、断言したいのか逃げたいのかがぶれる。「かなり」「さらに」「しばしば」は、論を慎重にするのでなく、腰を弱くしているだけだ。強く言うなら例を増やすべきで、例がないなら強い文明批評まで跳ばないほうがいい。今の原稿は語気だけ大きく、足場だけ曖昧という悪い中間にいる。
「鉄砲の人工的な輝きと、山奥の乾いた葉の散らばりが、都市の遊興と自然の手触りを正面衝突させている。」
ここは見たふりをして、実は概念を載せている。「ぴか/\」と「かさ/\」から読めるのは、せいぜい金属の光沢と落葉の乾きまでで、「都市の遊興」までは本文に出ていない。読みの飛躍が批評の手柄になっていない。賢治の細部を褒めるなら、こちらも細部に忠実であるべきで、勝手な寓意を上乗せした時点で論が雑になる。
「SNSやLINEでは」「現代SNSの『ぴえん』は、この反対側にある。」「現代の通信文化へ」
雑なくくり方で押し切っている。LINEの私信、Xの公開投稿、TikTokのコメント欄では、擬音の働きも温度も違うのに、全部まとめて「圧縮」と呼んで済ませている。しかも現代側の実例が「ぴえん」「おぴょん」だけでは薄すぎる。一語から時代全体へ飛ぶのは論ではなく印象批評だ。
「世界を分節する道具ではなく、空気を共有する札」「まとめて『ぴえん寄り』の気分として消費される」「世界の差異を切り分ける語の層が薄くなり」
同じ対立装置を三回言い換えているだけだ。分節対共有、差異対回収、輪郭対気分、どれも骨格は同じで、新しい見取り図を増やしていない。最初の一回は効くが、二回目からは説明の重複になる。装置を反復するのでなく、一度出したら次は別の角度、たとえば速度、受け手の共同性、文字数制約などへ進むべきだ。
「便利である。感情の送信コストが低く、読む側も即座に受信できる。だが、便利さは種類数を削る。」
この一節は、擬音語でなく絵文字でもスタンプでも若者言葉でも成立してしまう。つまり論の芯が「擬音語・擬態語」固有の話になっていない。反復音、清音濁音、促音、長音、かな表記の揺れなど、音象徴そのものに踏み込まないと、題材がただの踏み台に見える。今は「昔は解像度が高く、今は雑」という汎用エッセイの型に入っている。
「近代文学から現代の通信文化へ、人間が世界を聞き分ける力そのものの縮みが、かなり露骨に現れている。」
締めが大きすぎて、自分の立証不足を時代診断で帳消しにしている。ここまで言うなら、賢治以外の作家も、SNS側の複数事例も、使用場面の差も必要だが、原稿はそこまで積んでいない。文明の衰弱に着地すると、書き手は賢い顔で降りられるが、読者には「で、あなたは何を実見したのか」しか残らない。最後は人類論ではなく、ひとつの具体的な取り違え、あるいは自分自身が実際に使ってしまう「ぴえん」の貧しさに落としたほうが効く。
改稿では、青空文庫の引用はそのまま核に据え、自前の抽象語を大幅に削るべきである。論の射程も絞り、「近代文学対現代社会」ではなく、「賢治の一場面では葉と木が別語で鳴るのに、現代の特定のネット語法では感情が一括タグ化されやすい」くらいまで細くする。そのうえで現代側の実例を二つ三つ増やし、実際の用法の差を見せる。結びは文明批評で高く閉じず、引用と現代例のあいだに残る具体的な音の貧しさを一点だけ刺して終えると、原稿が急に本物になる。