擬音語・擬態語の種類数の変遷(第二稿)
宮沢賢治と現代 SNS の「ぴえん」

ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)

擬音語・擬態語の数を見たい。古い語か新しい語かではなく、一つの場面で何種類の音が立ち上がるか、である。ここで宮沢賢治は強い。ただし現代のネット語法を一概に鈍いとも言い切れない。LINEやXには、「ぴえん」だけでなく「えぐ」「しぬ」「草」のように、短い語へ態度を折りたたむ器用さがある。小書き文字、語尾の伸ばし、絵文字の添え方で、弱音にも冗談にもできる。細かいのは細かい。だが、その細かさが向かう先は、景色よりまず話者の顔つきだ。

二人の若い紳士が、すつかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴか/\する鉄砲をかついで、白熊(しろくま)のやうな犬を二疋(ひき)つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさ/\したとこを、こんなことを云(い)ひながら、あるいてをりました。

この一文では、光るものだけが「ぴか/\」し、足もとの葉だけが「かさ/\」している。両方とも派手な語なのに、互いの仕事を奪わない。金属は金属のまま光り、葉は葉のまま乾いている。賢治のうまさは、山全体をそれらしく鳴らすことではなく、物ごとに持ち場を与えるところにある。読者は場面の説明を受ける前に、どこへ目をやればいいかを音で教えられる。

風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。

ここではもっと露骨で、風は「どう」、草は「ざわざわ」、葉は「かさかさ」、木は「ごとんごとん」である。同じ風景なのに、空気、草、葉、幹が別口で鳴る。現代の短文でも調子の調整はできる。たとえば「ぴえん」は本気の落胆にも、軽い照れにも、茶化しにも使える。便利なのはそこだ。だが便利さの代わりに、何が鳴ったかは消えやすい。LINEで「ぴえん」と返した瞬間、濡れた靴なのか、遅延した電車なのか、割れた皿なのかは後景へ退く。語が仕分けるのは対象ではなく、送信者の温度になる。

賢治とネット語法の差は、昔は豊かで今は貧しい、という話ではない。どちらも省略している。ただ、省略の位置が違う。賢治は説明を削って音を残す。こちらは音をまとめて態度を残す。私はその差を、通知の返事を書くときに何度も踏む。傘の骨が指にひっかかって、駅の床で一度だけ乾いた音がした夜、打った返事は「ぴえん」だった。あの一語には便利さがあったが、骨のはね返りも、床の硬さも、指先のまずさも入らなかった。そこだけが、賢治の文とまだ埋まらない。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。