擬音語・擬態語の種類数の変遷
宮沢賢治と現代 SNS の「ぴえん」

ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)

擬音語・擬態語の歴史を、語彙の新旧ではなく種類数の増減として眺めると、宮沢賢治から現代SNSまでの落差はかなりはっきり見える。賢治の文章では、音や動きが場面の数だけ枝分かれし、読者の耳と皮膚へ別々に届く。これに対してSNSやLINEでは、「ぴえん」「おぴょん」のような短い記号が感情全体を一括処理する。泣く、困る、甘える、ふざける、その境目が丸ごと一音節半に圧縮され、擬音はもはや世界を分節する道具ではなく、空気を共有する札になった。

二人の若い紳士が、すつかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴか/\する鉄砲をかついで、白熊(しろくま)のやうな犬を二疋(ひき)つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさ/\したとこを、こんなことを云(い)ひながら、あるいてをりました。(擬音語・擬態語の種類数の変遷・注文の多い料理店)

この一文だけで、視覚の「ぴか/\」と触覚寄りの「かさ/\」が分業している。しかも両者は、単なる飾りではない。鉄砲の人工的な輝きと、山奥の乾いた葉の散らばりが、都市の遊興と自然の手触りを正面衝突させている。賢治の擬音語・擬態語は、対象ごとに専用の音色を与えることで、景色の輪郭を細かく刻む。読者は「山の中にいる」と理解する前に、すでに葉の乾き具合まで感じ取る。種類が多いというのは、言い換えれば、知覚の窓口が多いということだ。

風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。(擬音語・擬態語の種類数の変遷・注文の多い料理店)

ここではさらに鮮明である。「どう」「ざわざわ」「かさかさ」「ごとんごとん」と、風景が四種の振動へ分解される。空気の圧、草の群れ、葉の表面、幹の重量が、それぞれ別の語で鳴っている。ひとつの山の場面に、これだけ異なる音象徴が配置されると、自然は抽象的な背景ではいられない。場所が鳴り、物が揺れ、材質が主張する。賢治の文章の豊かさは、比喩の豪華さより、擬音語・擬態語の選択肢が多いことに支えられている。

現代SNSの「ぴえん」は、この反対側にある。便利である。感情の送信コストが低く、読む側も即座に受信できる。だが、便利さは種類数を削る。「ぴえん」は悲しみだけでなく、軽い失敗、照れ、冗談までも呑み込み、「おぴょん」は跳ねる動作よりもキャラクター化された軽薄さを先に運ぶ。語が対象に貼りつくのでなく、話者の所属するノリを示す印になる。そこでは、葉はもう「かさかさ」と鳴らず、木も「ごとんごとん」とは鳴らない。ただ投稿全体が、まとめて「ぴえん寄り」の気分として消費される。

擬音生成力の貧困とは、新語が少ないという意味ではない。むしろ逆で、流行語は次々に生まれる。問題は、世界の差異を切り分ける語の層が薄くなり、何でも数個の強い記号へ回収されることにある。賢治の山奥には、葉の音と木の音のあいだに距離がある。SNSのタイムラインでは、その距離がしばしば省略される。語彙の流行より重大なのは、耳の解像度の変化である。擬音語・擬態語の種類数の変遷を追うと、近代文学から現代の通信文化へ、人間が世界を聞き分ける力そのものの縮みが、かなり露骨に現れている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。