「「明日空いてる?」は予定を聞いていない」の背後には、言語哲学者ポール・グライスが1967年に提示した会話の枠組みがある。発話は字面通りの意味だけでなく、文脈と協力的解釈によって追加の意味(含意)を運ぶ。それを規定する原則を協力の格率と呼ぶ。
グライスは、会話の参加者が無意識のうちに従っている4つの原則を提示した:
これらは命令ではなく、暗黙の合意である。話し手と聞き手の双方が「相手はこれらを守っているはず」と前提する。そして、表面上格率が破られている発話を聞いたとき、聞き手は『隠された意味』を推論する。これが含意(implicature)の生成メカニズムである。
本作で、同僚が「明日の夜、空いてる?」と切り出す。字面通りなら、これは予定の有無を尋ねるイエス/ノー疑問文である。しかし、ソノダはこの発話がそれ以上を運んでいることを理解している。なぜなら、関連性の格率に照らせば、同僚が単に予定の有無を知りたいだけのはずがない。予定がないと答えれば、その後に何かの誘いが続くことは明らかである。
これは隠された意図というより、会話の構造として標準化された前置きである。誘う側は相手の予定を尊重する姿勢を示し、誘われる側に断りやすさを残す。両者ともこのプロトコルを知っている。「空いてる?」は、誘いの前段として機能している。
もし同僚が最初から「明日、温泉に行きませんか」と言っていたら、ソノダは断りやすかった、と本文にある。断りやすさは、誘う側にとっては不利に見える。しかし長い目で見ると、断りやすさを提供することは、関係を維持する重要な技法である。
もし「空いてる?」を経由せずに直接誘えば、断った場合に相手の意図を明確に拒絶したことになる。「空いてる?」を経由すれば、「ちょっと忙しくて」と前段で断ることができ、誘う側も意図を最後まで明示せずに済む。両者の顔が保たれる。
協力の格率の表面的な違反(無関係な質問)が、実は深い協力(関係維持のプロトコル)を運んでいる。言葉は、字面どおりの意味を運ぶ仕組みではない、と本文の最終行は正しく言い当てている。
シリーズ「裏の糸」は、専門家には当たり前の概念を、暮らしの言葉で語り直す試み。これまでに経済学(外部性〜シトフスキー、公共財、機会費用、アンカリング)、哲学(テセウスの船)、計算理論(NP困難)、生物学(共進化)などを扱ってきた。本作はそれらに続く一本である。シリーズ全作のリストは カテゴリM から。