核は強い。下端を斜めに張って柱に結ぶ風の固定、通りに出て自分の掛けた簾を見上げる目、「青いうちは新参、飴色で軒に馴染む」という客の言葉、台風の翌朝に切れた吊り紐へ走る応急。この四点は、ほかの誰にも書けない。問題は、書き手がその四点を信用せず、夏の原風景の書き割りで幕を開け、留保語尾で職人の断定を薄め、最後の段で「ひと夏の勤め」を自分で解説して回収してしまっていることだ。簾は半分だけ通す建具だと自分で書いた人が、エッセイでは余白を全部塞いでいる。
「蝉の声が降りしきり、入道雲の立つ日本の夏の青空の下、私は脚立とひごの束を積んで、町へ出る。」
蝉・入道雲・青空。三点セットで「日本の夏」を既製品のまま貼っています。どのカレンダーの七月にも刷ってある絵で、ハチスケイである必然がない。二十七年この季節に町を回った人間が最初に思い出すのは、青空ではなく、脚立の天板が朝のうちから熱くて素手で触れないとか、積んだ葦が車内で立てる匂いのはずです。雰囲気が人物より先に立っている、生成された“それっぽさ”の典型。
「遠目に分からなければそれでいいのだと思う。」(※前作の癖)/「来年もまた掛けるための知恵を……」の段の「のだ」連発、そして「私のこの仕事も、ひと夏の勤めを支えるための仕事なのだ」。
固定の知恵も、仕舞いの知恵も、この職人は手で確かめて知っていることだ。なのに地の文が「のだ」「のだろう」で締まると、確信ではなく作者の保険に見える。紐は「少しだけきつめにする」と動作で書けているのに、なぜそうするかを「来てくれと言っているようで、それは違うと思うから」と内面で説明してしまう。断定で生きている職人の手つきが、語尾でぼやける。
「どちらがいいではなく、何に使うか、という言い方をする。説明する言葉は、淡々と選ぶ。」
「淡々と選ぶ」と書いた瞬間に、淡々としていない。本当に淡々としているなら、客に言った言葉そのものを一つ置けばいい(「日除けだけなら、向こうで足ります」)。「けなさない」「淡々と」という態度の自己申告は、読者が動作から受け取るべき印象を、作者が先に名指しして奪っている。値段の差をいくらと書かず「何分の一か」とぼかしたのも逃げで、ここは具体的な数字が一つ要る場所です。
「掛かっている自分の仕事を、通りすがりの目で見られる季節は、夏しかない。」/(最終段)「掛かっている簾を通りから見上げるとき、私はいつも、そう思う。」
このエッセイで一番効いている所作が「自分の掛けた簾を下から見上げる」です。三段目で一度きれいに書けているのに、最終段でもう一度持ち出し、しかも「そう思う」という解説の台にしてしまった。強い所作は一度で十分で、繰り返すと初出の値打ちが下がる。最終段の見上げは削るか、思考ではなく見えたもの(焼けた色、垂れ方、影の縞)に着地させるべきです。
「あるお店の方は、青いうちは新参で、飴色になって初めて店の軒に馴染む、と言った。」
言葉は良い。だが「あるお店」が概念のままです。何の店か、軒はどちらを向いていて、その簾は何夏目だったのか。実際にそこに立った人間なら、店先の何か(暖簾の色、置いてある氷の旗、開けっ放しの戸口)が一つ見えているはずで、それが無いと、この良い言葉が伝聞のテンプレートに見えてしまう。固定の段の「濡れ縁の柱に結ぶ」が具体で効いているのと比べると、客の場面だけ景色が抜けています。
「日差しと風のあいだで、簾はひと夏の勤めを果たす。……私のこの仕事も、ひと夏の勤めを支えるための仕事なのだ。」
最終段が、エッセイの主題を主題文として言い直しています。「勤め」という見立ては悪くないが、それは三段目の見上げと六段目の応急走りが、すでに動作で語っていることだ。同じ内容を抽象語で繰り返すたびに、現場の動作の値打ちが下がる。主題を書いたら、それはエッセイではなく要約です。タイトルの「勤め」を本文で説明し返してはいけない。
「一年でいちばん、自分の仕事が外に出ている季節である。」
この一文は、植木屋にも、看板屋にも、テント屋にもそのまま置ける汎用文です。「外に出ている」を概念で言うのではなく、簾に固有の出方——町の軒に掛かって、誰も職人を思わないまま風景になる——で書けば、三段目とつながって一本になる。実際その中身は三段目に書けているのだから、この一文はむしろ三段目の前置きを薄めています。
残すべきは四つ。下端を斜めに張って柱に結ぶ固定、通りに出て自分の簾を見上げる一度きりの所作、「青いうちは新参、飴色で軒に馴染む」の客の言葉(店を具体にして)、台風翌朝の吊り紐への応急走り。削るべきは、蝉と入道雲の書き割り、「淡々と」「けなさない」の態度の自己申告、留保の「のだ」、そして最終段の「ひと夏の勤め」の主題解説。改稿では、値段は数字を一つ出し、客の場面に店先の景色を一つ置き、見上げは一度だけにして思考ではなく焼けた色に着地させること。意味は、掛かっている簾が運ぶ。説明が運ぶのではない。