外掛けの、夏(第二稿)
編んだ簾が、軒先で勤めに出る季節

ハチスケイ(49歳・簾職人27年)

梅雨が明けると、工房は届ける側に回る。春に編んでおいた外掛けの日除けを、軽トラに積んで軒へ取り付けに行く。脚立の天板は朝のうちから熱くて、素手で天を触れない。積んだ葦の束が、車内で日に温められて青臭く匂う。これが私の夏のはじまりだ。

取り付けは、掛けるだけではない。難しいのは固定ではなく、風だ。上端の竹は軒の野縁に二点で受ける。問題は下端で、ここを遊ばせると、夏の南風で簾が軒に当たって鳴り、一夜で目が狂う。だから下の両脇から斜めに紐を張り、濡れ縁の柱に結ぶ。私は紐を、緩むぎりぎりまできつく締める。手で押して、簾が一寸も逃げないところまで。

掛け終わると、私は通りに出て、自分の掛けた簾を下から見上げる。台の上では平面だったものが、軒に掛かると、町の風景になる。誰も簾職人がいたとは思わない。商店の軒に一枚、その先の家の縁側に一枚、それが通りすがりの景色のなかに紛れていく。職人が見えなくなるところまで掛けて、ひとつ仕事が終わる。

夏のあいだに、簾は焼ける。掛けたばかりは葦の青が残るが、ひと夏の西日で青が引き、飴色が差す。氷の旗を出した角の甘味屋に掛けた一枚を、三夏目に見に行ったことがある。店の人が言った。青いうちは新参で、飴色になって初めて軒に馴染む、と。だから古びたとは言わない。私はその言葉を、自分の手柄のように覚えている。

取り付けに行くと、値段の話になる。ホームセンターの簾は千円、私の編むものは一枚二万を超える。客がそれを口にしたとき、私はけなす言葉を持たない。日除けだけなら、向こうで足ります、とだけ言う。あれは機械で一気に編んだもの、これは手で一目ずつ綴ったもの。一夏で使い捨てるか、何年も掛け替えて使うか。どちらがいいではなく、何に使うか、で値段が分かれる。

夏の盛りには、駆け込みがある。台風の翌朝、吊り紐が切れて簾が片側に垂れた、という電話だ。私は出張の道具を積んで走る。切れた紐をその場で結び替え、煽られて緩んだ金具を締め直す。応急だから、根は秋に外したとき直すと言い置いて帰る。掛かっているあいだ、簾はずっと風と勝負している。修理に走るたび、手のなかで紐の切れ口が、ささくれている。

夏が終わると、外し方の相談が来る。よく乾かしてから巻くこと、きつく巻かずにゆるく巻くこと、立てて、湿気の通る場所に置くこと。横に寝かせて重ねると、下の一枚の竹が癖をもらう。来年また掛けるための知恵を、私は毎年、同じ口上で伝える。簾は売って終わる建具ではない。仕舞われて、また出てくる。

秋、外しに行った甘味屋の簾は、すっかり飴色だった。巻き取って客の手に渡し、立てて置く場所まで運んだ。帰り際、もう一度だけ軒を見上げた。簾の外れた軒先に、西日が縞も作らずまっすぐ落ちていた。来年の春、私はまた青い葦を選り分ける。指の輪をくぐる、外掛けの太さの葦を。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。