核は強い。一本の竹を、簾屋は胴の直材として見、凧屋は元玉の反りとして見る——「一本の竹の中に、二つの適材があった」。同じ鉈を、片方は割るために、片方は削いで反らせるために使う。竹屋の親父が「こういうのが、いちばん竹が無駄にならん」と勘定しながら采配する。この骨格だけで十分に立つ。問題は、書き手がその骨格を信用せず、「竹は人と人を結ぶ」式の常套で入口を飾り、最終段で主題を直叙して回収してしまうことだ。職業の手つきにも、よく見ると曖昧な箇所がある。
「竹は人と人を結ぶというが、まったくその通りで、私はその一本の電話に半生をつないできたように思う。」
「竹は人と人を結ぶ」は、竹でも糸でも縁でも何にでも差せる既製の叙情シールです。しかもこのエッセイの実際の縁は、結ばれたのではなく、同じ束の反対側でたまたま隣り合っただけ。常套句で先に「いい話」だと宣言してしまうから、土間の即物的な出会いの強さが薄まる。この一文は丸ごと要りません。
「私たちは同じ一束を、まったく違う目で見ていたのだと思う。」「それが簾の設計だと、親方は言いたかったのだと思う。」のような〈〜のだと思う/〜ように思う〉が全体に多い。
太さを指の輪で決め、目の本数を一本単位で詰める語り手が、肝心の発見を「見ていたのだと思う」と濁すのは弱い。違う目で見ていたのは、推測ではなく目の前で起きた事実です。「同じ一束を、反対側から、違う部位を見ていた」と言い切ればいい。留保語尾は、断言を避ける作者の保険であって、ハチスケイの口調ではない。
「同じ一本の竹の、二つの行き先なのだ。」「竹屋の土間に並ぶということは、自分が竹のどこを見ていないかを、隣の職人に教わるということなのかもしれない。」
前者は主題文をそのまま貼っただけ。すでに本文が「私が捨てる元玉が、オボロさんの核だった」と動作で見せているのに、最終段で抽象語に翻訳し直すたび、見せた場面の値打ちが下がる。後者の「教わるということなのかもしれない」は、留保のうえに教訓まで足した二重の蛇足です。デビュー作の改稿で削ったはずの「半分通すことが、いまの私を作ってくれた」式の自己赦しが、ここで再発している。
「常連は黙って順に並ぶ。誰が先か、口で決めることはない。」
「口で決めることはない」なら、では何で決まるのかが観察の核のはずです。電話を受けた順か、土間に着いた順か、それとも竹屋の親父の目配せか。「籠屋は籠屋の場所に、笊屋は笊屋の場所に」と書きながら、肝心の〈順番〉の決まり方だけ概念で流している。実際に二十数年並んだ人間なら、ここに一つ具体が出るはずです。
「同じ鉈で、刃を寝かせて、表の硬い層を残しながら裏を削り、火であぶって反らせる。」
方向は良い。ただ「同じ鉈」と強調する以上、自分の側の手つきも同じ精度で対置してほしい。第一稿の簾側は「鉈を節に当てて、まっすぐ下ろし」と書くが、割りで肝心なのは節を割らずに節と節の間を裂くことのはずで、「節に当てて」は逆に読める。割る私/削ぐオボロ、という対比は核なのだから、ここの一手だけは嘘なく書くこと。観察の左右が非対称だと、せっかくの「同じ道具の違う手つき」が片肺になる。
「今年も上物の入る朝が近い。私はまた、あの薄暗い土間の奥に立つのだろうと思う。」
デビュー作の「今年も冬の工房は静かで、葦の束が出番を待っている」とほぼ同じ型です。季節を一巡させて余韻を出す常套で、土間でも工房でも、どの職人回想にも貼れる。同じ書き手が同じ締め方を繰り返すと、構成が判子に見える。この回は「土間の上で竹の置き場所が入れ替わった」という即物的事実で終われるはずで、季節の輪に逃げる必要はない。
「『ここの反りがいいんだ』と、ひとりごとのように言った。」
オボロサキの最良の一言がこれなら惜しい。撫でていた部位は、私が捨てる元玉です。同じ束の反対側から、私が要らないと決めた場所を「いい」と言う——その台詞は、ひとりごとではなく、私に向かって言われたときに最も効く。共演回なのだから、二人の視線が一度ぶつかる瞬間を、台詞でひとつ作るべきです。後半の「これは、止めるための竹だな」は良い一言なので、こちらを軸に据えてよい。
残すべきは四つ。同じ束を反対側から覗く二人、一本の竹の中の二つの適材(直材と元玉の反り)、割る鉈と削ぐ鉈の対比、そして「こういうのが、いちばん竹が無駄にならん」という親父の采配。削るべきは、冒頭の「竹は人と人を結ぶ」、全編の〈〜と思う〉、最終段の「二つの行き先なのだ」と教訓、季節を巡らせる締め。改稿では、順番の決まり方を一行で具体にし、簾側の割りの一手を正確に書き、オボロの台詞を私に向けて一度だけ立てること。意味は、土間で入れ替わった竹の置き場所が運ぶ。説明が運ぶのではない。