論旨は明快で、古い日本語の「恥」関連語を、現代語の「恥ずかしい」が潰してしまった細かな差異として捉え直そうとしている。その着眼自体は悪くないが、本文は早い段階で結論を言い切ってしまうため、以後の段落がほぼ予定調和の確認作業になっている。文学作品への言及も、作品を読んだ人の手触りより「作家名に乗った一般論」に寄りがちで、比喩は多いのに現場の像が薄い。いちばん残すべきなのは、恥を心理ではなく「どこに生じた傷か」で言い分けようとする視点であって、今の稿はその核の周囲に便利な表現が付きすぎている。
「現代語になると、この凹凸が急に平らになる。失言でも場違いでも、ひとまず『恥ずかしい』で受け止められ、軽く流す時は『恥ずい』で済む。便利ではある。だが便利さは区別を削る。」
冒頭で「現代では薄まっている」と置いた時点で、読者はもう終点を見ている。そこへこの一節が来るので、発見ではなく予定された着地にしか見えない。途中の作家論が全部「やはり昔のほうが細かかった」の証拠集めに落ちている。
「人を笑わせる身ぶりの裏に『羞恥』が貼りつき、世間に対する反発の言い方には『破廉恥』という札がぶら下がる。」
「貼りつく」「札がぶら下がる」は、意味を精密にする比喩ではなく、文章をそれらしく見せるための即席の装置に見える。ここは太宰の文体や場面のねじれを見せるべき箇所で、汎用比喩を重ねるほど、逆に読んでいない感じが出る。
「語彙が多かった時代が上等だった、という話ではない。どこが傷んでいるのかを言い分ける道具が手元にあった、ということだ。」
この種の予防線が入ると、直前までの断定が急に腰砕けになる。自分の主張が懐古主義に見えるのを怖がって先回りしているが、その怯えが文章の圧を抜いている。言い換えで逃がすより、何を失ったと考えるのかをそのまま引き受けたほうが強い。
「樋口一葉の人物たちは、貧しさや身分のきしみを、ただ困窮としてではなく『恥』の波立ちとして受ける。そこでは恥が家の境遇とすぐ結びつき、女の身の細さに沿って広がる。」
誰の、どの場面で、どの仕草がそう見えるのかが一切ないので、作家名の上に一般論を載せただけに見える。一葉を本当に持ち出すなら、作品名か人物名か一場面くらい出さないと、この段落は「一葉っぽい説明」で終わる。
「太宰治では事情がさらにねじれる。『恥』は単なる失面ではなく、生き延びたことそのものにまとわりつく。」
太宰をここまで一息で要約すると、もう作品ではなく作家イメージの消費になる。「生き延びたことそのもの」などと大きく包むほど、どのテクストのどの局面なのかが消えて、読者はうなずくしかなくなる。
「その周囲にはいくつもの地層がある。」「触れている場所が違う。」「語の差は、感じ方の差というより、感じる場所の差である。」
地層、場所、接触面、皮膚、陰、波立ちと、空間化・身体化の装置がずっと同じ方向を向いている。統一感ではあるが、反復しすぎて後半ではもう説明の癖として先に見えてしまう。ひとつ効いた比喩を使い回すと、だんだん思考の代用品になる。
「言葉に段差があれば、感情の形も少し精密に見える。」
これは内容自体は無難だが、対象を「怒り」「孤独」「祈り」に置き換えてもそのまま通る。つまりこのエッセイ固有の観察ではなく、言語一般論の美しい言い回しに逃げている。ここで必要なのは名文ではなく、この文章にしか出せない限定だ。
「いま要るのは古語の復古ではなく、その段差への感覚である。ひとは人目の中で縮み、なお持ちこたえようとする。その途中に、昔はもう少し多くの名前が置かれていた。」
結びがやさしすぎる。復古ではない、と自分を無害化してから、ふんわり人間一般へ広げて閉じるので、批評の刃が自分で鈍る。ここまで来たなら、何を取り戻すべきで、何は捨ててよいのかまで踏み込まないと、賢明な感想文で終わる。
残すべき核は、「恥」を単一感情としてではなく、身体反応、対面の圧、社会的失墜、自尊の歯止めといった発生部位の違いとして捉える視点である。改稿では、まず冒頭の結論を弱め、代わりに具体的な一場面を先に置くこと。次に、一葉・志賀・太宰を作家名の看板で処理せず、各一場面に絞って語を当てること。最後に、比喩と予防線を半分に減らし、「現代語が平板になった」という一般論ではなく、「どの傷が見えなくなったのか」を言い切ることだ。