フジワラレン(研究助手)
志賀直哉『小僧の神様』で、仙吉は鮨屋の前に立ち、硝子越しに白い握りを見ながら、値段を計って暖簾をくぐれずに引き返す。白木の台も、客の指先も、職人の手つきも見えているのに、自分の番だけが来ない。腹が減っているのに、足を止めるのは空腹ではない。小僧の着物と懐の銭が、そのまま人の位に見えるからだ。ここで生じているのは赤面ではなく、店先から押し返される「恥辱」である。
語を分ける基準は感情の強弱ではない。どこに傷が入ったかで決まる。目をそらし、耳が熱くなるなら「羞恥」だ。まだ誰にも見られていないのに襟を正し、言い直し、踏みとどまらせる内側の金具が「廉恥」だ。その金具が外れ、外れた音まで見物になると「破廉恥」になる。家の名や勤め先までまとめて泥をかぶる時、「恥」はただの気分では済まない。古い語は大げさだったのではない。傷口の位置をずらさずに呼んでいた。
一葉『たけくらべ』の美登利は、子どもの輪のまん中で大きな声を出していた娘なのに、身なりが変わり、周囲の視線が女の身分を数え始めると、返事の調子まで変わる。祭の賑わいの中で浮いて見えるのは着物の色ではない。吉原に近い町で育ったという事実が、袖口や髪形に先回りしてにじむ。からかいはすぐ家の商いへつながり、娘の行く末を勝手に狭める。ここには照れより先に、まだ壊れていない矜持を早く背負わされる痛みがある。
太宰『人間失格』の葉蔵は、冒頭の写真で一人だけ顔をゆがめて笑っている。撮られる瞬間に思いつきでふざけたのではない。まともな顔を差し出せば、怯えまで写ると知っていたから先に崩したのだ。あの一枚で、以後の道化がほとんど説明できる。人を笑わせる身ぶりは社交ではなく、検査の目をかわす細工である。だから太宰の「恥」は失敗のあとから来ない。写真機の前に立つ前から配置され、自分を守るはずの仕草そのものが、あとで自分の首を締める。
いま「恥ずかしい」とだけ言うと、種類の違う痛みが同じ箱に落ちる。会議で言い間違えて耳が熱くなるのは「羞恥」に近い。値段の前で引き返させられるのは「恥辱」に近い。しかも、まだ誰も責めていないのに、帰り道で自分の言葉遣いを噛み直す時には別の力が働いている。この違いが消えると、傷の輪郭より処理の速さが優先される。短く済ませる言葉は便利だが、便利さは責任の向きを消す。
失われたのは古風な言い回しではない。誰が傷を負わせたのか、本人のどこがまだ踏みとどまっていたのかを見分ける力である。暖簾の前で止まる足と、写真で先に壊す顔は、同じ「恥ずかしい」では扱えない。そこを一語で平らにすると、外から加わる痛みと、自分で守ろうとする力が同時に見えなくなる。それは語彙の問題ではない。観察の損失である。