洗いの、水
桐は一度ぬれて膨らみ、乾いて締まる

ハナブササカエ(67歳・桐箪笥の修理職人42年)

桐箪笥の修理に、水を使うと言うと、たいていの人は驚く。木の家具に水は禁物だと、誰もがそう思っている。だが洗い替えの「洗い」は、文字どおり水で洗う工程のことだ。分解した箪笥に湯をかけ、何十年ぶんの灰汁と、前の代の職人が塗った古い砥の粉を、束子で落としていく。家具を水で洗う。考えてみれば不思議な仕事をしているものだと、自分でも思う。

洗いは、まず箪笥を一棹ばらばらにするところから始まる。引き出しを抜き、側板を外し、棚板を割り、組み手をほどく。ばらした桐の板を洗い場に並べ、湯をかける。湯加減は、熱すぎても冷たすぎてもいけない。手を入れていられるくらい、というのが昔からの言い方で、私もそう教わった。あまり熱い湯をかけると、木の中の脂まで抜けて、あとで色が乗らなくなってしまうのだと思う。

湯をかけたら、束子でこする。汚れの軽いところは棕櫚の柔らかい束子で、こびりついた古い砥の粉や灰汁の濃いところは、もう少し硬い束子で。同じ板の中でも、こすり分ける。力任せにやると桐は柔らかいから目が起きてしまうので、湯で汚れをふやかしておいて、束子はあくまで撫でるように使う。灰汁が溶け出して、湯が茶色く濁る。何度も湯を替えて、濁りがうすくなるまで、これを繰り返す。

洗いには、もう一つの顔がある。汚れを落とすだけではない。桐は水を吸うと一度膨らみ、乾くとまた締まる。洗うことで、木はいったん、最初の状態に戻ろうとする。長い年月のあいだに歪んだ組み手も、湿りを含んで少しゆるみ、乾くときにまた締まり直す。洗いとは、汚れを落とす工程であると同時に、木を一度まっさらにリセットする工程なのだ。水をくぐらせることで、桐はまるで生き返るように、もう一度若い木のような顔を見せる。

洗ったあとは、乾かす。これが、夏と冬とでまるで違う。やってはいけないのは、直射日光に当てること。早く乾かしたい一心で日向に出すと、表面だけが先に縮んで、中が追いつかず、桐は割れる。だから乾かしは、いつも陰干しだ。風の通る日陰に、板と板のあいだに間を空けて立てかける。夏は湿気が高いぶん、乾きが遅い。冬は空気が乾いている代わりに、急に乾きすぎないよう、少し場所を選ぶ。何日で乾くかは、その日の天気と相談するしかない。

乾いてくると、洗いの本当のごほうびが現れる。汚れの下に隠れていた木目が、はっきりと顔を出すのだ。煤と手垢で灰色に沈んでいたときには見えなかった、桐のまっすぐな柾目。柾の通った板ほど、洗ったあとの顔が清々しい。汚れの下に、こんな木目が眠っていたのかと、洗うたびに思う。木が、本当の顔を取り戻す瞬間だと言ってもいい。

それでも、洗っても落ちないものがある。輪ジミと、焼けだ。コップの底が作った輪のシミは、もう木の中まで染みていて、束子では落ちない。窓辺に置かれていた箪笥の、日の当たった側の焼けも、洗っても色がそろわない。落ちないものを、削って消すか、そのまま残すか。これは、洗いながら施主と相談する。前の箪笥たちで、消すか残すかをずっと考えてきたが、洗いの輪ジミも、それと同じだ。施主が、その輪は祖母がいつも薬を置いた場所だと言えば、私はその輪を、薄く残すことを考える。

洗った板が、乾くのを待つあいだ、私の手は空く。だが洗い場の隣で、外した金具が、磨かれるのを待っている。だから乾燥を待つ何日かは、金具を磨く日になる。板が陰で乾いていくのを横目に、私は前飾りの真鍮を撫でる。乾くのを待つ時間と、磨く時間が、ちょうど噛み合う。工程というのは、こうしてうまく組み合うように出来ているのだと、長くやっていると思えてくる。乾いた板の並ぶ作業場は、静かで、少し湿った匂いがする。

つまり洗いとは、汚れを落とすことであり、木を一度リセットすることであり、隠れていた木目を呼び戻すことなのだ。水を使うという意外さの底に、桐をもう一度若がえらせるという、洗いの本当の意味がある。今日も洗い場では、ばらされた桐の板が湯をかけられ、陰で静かに乾くのを待っている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。