ハナワキョウコ(57歳・理容店二代目)
第三土曜の朝いちばんに三十年来ていた人が、来ない。次の月も来ない。世間話の半分は聞き流しても、周期のずれだけは聞き逃さない。しばらくして、見覚えのない若い人が戸を開ける。「父がいつもお世話になりました」。訃報は、息子の来店という形で、後から届く。
そう言われた瞬間、私の手は、棚の剃刀に伸びかけて止まる。次の客の支度をしようとしていた手だ。お悔やみを言いすぎても重い。軽く流せば薄情だ。三十五年やって、いまだに正しい返しを知らない。私はたいてい、止まった手のまま、長いことありがとうございました、とだけ言う。
うちに家族割引はない。けれど「いつもの」は引き継がれる。何ヶ月か経って、その息子さんが椅子に座る。「父と同じで」。横と後ろは二番、上は鋏。私の手は、亡くなった人の注文をまだ持っている。二番のアタッチメントを横から入れながら、前にこの長さで刈ったのは去年の春だったか、と指が先に思い出す。
逆に、孫を初めて連れてくる日もある。「この子の初めての散髪は、こちらで」。最初の髪はうちで、と決めている家が、何軒かある。子ども用の補助板を椅子に渡して、その上に座らせる。足は床に届かず、ぶらぶらしている。バリカンの音がうなると、たいていの子は泣く。
初散髪では、刈った毛を少し包んで渡す。後ろのやわらかいところを一房、半紙の中央に集める。これが、いつも手こずる。子どもの産毛は静電気で半紙にまとわりつき、指で寄せても端へ逃げる。泣いている孫の頭を片手で押さえ、もう片手で逃げる毛を追っているあいだ、おじいちゃんが目を細めて見ている。この人も昔、誰かに連れられてこの椅子に座った。
待合の漫画は、何年かに一度入れ替える。同じものだと子どもが飽きるからだ。けれど入れ替えるたびに気づく。前にこれを読んでいた子が、もう「父と同じで」と座っている。棚の漫画が一巡するあいだに、客が一代ぶん進む。
三代を刈ると、頭の形が似ている。つむじの巻きが右へ強い。生えぎわの角が、同じところで切れている。顔は似ていなくても、てっぺんだけは受け継がれている。本人は知らない。毎日鏡を見ても、自分の頭のてっぺんは見えないからだ。三代の頭が似ていることを、私の鋏だけが知っている。