核は強い。誰も握っていないつり革が一斉に同じ方向へ揺れること、「回送」の表示の前で半歩前に出てしまう人、運行表に細く記された「回送」区間が営業距離と同じキロ数に足されていくこと。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がこの三点を信用せず、「荷物のない引っ越しトラック」のような借り物の比喩で場面を立ち上げ、最終段で「本当の私は乗せない運転の中にいた」と全部を解説して自分に勲章を授けてしまっていることだ。バス運転手という、操作と手順で生きている人間を語り手にしながら、肝心の操作の手つきが曖昧なのも惜しい。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「思えば、回送の時間にこそ、運転手の素顔があるのだ。」「三十六年、私は乗せる運転ばかりしてきたが、本当の私は、乗せない運転の中にいたのかもしれない。」
主題を自分で要約して、最後に判子を押して終わっています。「〜にこそ〜があるのだ」は、どの職業エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、ハシモトケンジである必然がない。しかもこれは自己賛美です。子どもに手を振り、つり革を見ている自分を「本当の私」と持ち上げてしまうと、それまで積み上げた居心地の悪さ——乗れない人の前を通過する後ろめたさ——が、全部きれいな悟りに回収されてしまう。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めている。
「空っぽの車内を引いて街を走るのは、荷物のない引っ越しトラックのようなもので、目的だけが残った運転だと言えるだろう。」
「目的だけが残った運転」は、よくできた言い回しに見えて、実は何も見ていない。引っ越しトラックの比喩は外から借りてきたもので、三十六年バスを運転してきた人間の体感ではない。この語り手が本当に空車を走らせたなら、出てくるのは比喩ではなく、前段で自分が書いている「アクセルの当たりまで、いつもと違う」という身体の事実のほうだ。そちらが本物で、引っ越しトラックは飾りです。飾りのほうを結論めかして置くから、生成された“それっぽさ”に見える。
「目的だけが残った運転だと言えるだろう。」「あの時間だけは、運転手も「回送」されているのかもしれない、とふと思った。」「本当の私は、乗せない運転の中にいたのかもしれない。」
バス運転手は断定で生きている職業です。停まる、停まらない、乗せる、乗せない。ミラーを見て、ドアを開けるか開けないかを一瞬で決める。その人物の回想が「〜だろう」「〜かもしれない」で薄められているのは、現場の人間の声ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに「回送されているのかもしれない、とふと思った」は二重に逃げていて、洗車機の数十秒という強い場面を、自分でぼかして台無しにしている。
「終点で客が全員降りると、私は行先表示器のスイッチをひとつ操作する。」「私は表示器を確かめてもらうしかなくて、頭を下げる気持ちで、その前を通過する。」
「スイッチをひとつ操作する」は概念であって観察ではない。実際に三十六年その装置に触れてきた人間なら、それはダイヤルなのかボタンなのか、回すと表示が幕で送られるのか液晶が切り替わるのか、手応えはどうか——どれか一つは具体が出るはずです。同じく「頭を下げる気持ちで通過する」も逃げで、頭を実際に下げるのか、下げられないのか(前を見ていなければならないから下げられない、はずだ)が書かれていない。下げられない、と書けばこの後ろめたさは本物になる。気持ちで、と書くと観念になる。
「客がいるときは、つり革はばらばらに揺れている。誰もいないと、こんなにもそろって揺れるのかと、私はミラー越しに、しばらくそれを見ていた。」
つり革が一斉に同じ方向へ揺れる——ここはこのエッセイで最も強い。だが「客がいるときはばらばら」と対比を解説した瞬間に、像が説明に格下げされる。読者は対比を勝手に補える。さらに「しばらくそれを見ていた」は前作のレビューでも指摘された汎用文で、見ていた中身(揺れの周期を数えたのか、無人の車内が怖かったのか)がないと、思考は存在しないのと同じです。揺れだけを置いて黙るのが正解。
「回送のバスは、今夜も静かに車庫へ帰っていく。」
この一文は、デビュー作の結び(「回送表示に切り替わったバスは、今夜も静かに車庫へ帰っていく」)の使い回しです。同じ書き手の自己模倣で、しかも「静かに」「今夜も」という情緒語で余韻を偽装している。三作目でまた同じ車庫へ帰らせるなら、せめて帰り方を変えるべきで、できれば帰り着く前——洗車機の泡で何も見えない数十秒——で切ったほうが、はるかに残る。
「乗れないバスだとは思っていない。ただ大きな車が走っているから、手を振る。」
子どもがなぜ手を振るかを作者が代弁しています。これは運転席のミラーからは見えない情報で、語り手の越権です。ハシモトに書けるのは、子どもが手を振ったという事実と、自分がハンドルの指を少し動かして振り返したという動作だけ。子どもの内心を説明した分だけ、その「指を少し動かす」という規定すれすれの小さな動作の鋭さが鈍る。核は動作にある。
残すべきは四つ。無人の車内でつり革が一斉に同じ方向へ揺れること、「回送」の前で半歩前に出てしまう人とその前を通過すること、子どもへハンドルの指を少しだけ動かして返すこと、運行表で営業と回送が同じキロ数に足されること。削るべきは、引っ越しトラックの比喩、留保語尾、最終段の「本当の私」という自己賛美、そして使い回しの車庫の結び。改稿では、表示器の切り替えを具体の手つき(幕が送られる、など実体のある動作)で一行押さえ、停留所の通過は「頭を下げられない」という不可能で書き、終わりは洗車機の泡で視界が消える数十秒で切ること。意味は動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。