回送、という時間(第二稿)
乗せない運転について

ハシモトケンジ(59歳・市営バス運転手36年)

終点で客が全員降りる。私は左手で行先表示器のスイッチを倒す。「桜ヶ丘団地」の幕がカタカタと送られて、白地に黒の「回送」で止まる。表示が変わったその瞬間から、これは公共のバスではなく、ただの一台の車だ。三十六年やってきて、この数キロが、いまでもいちばん落ち着かない。

回送は、誰も乗せない。営業所まで車体を戻すだけだ。客のいない車内は軽くて、同じアクセルの踏み方でも、出だしが一拍早い。三十六年踏んできた足が、いつもと違うと感じる。それだけのことが、空車だという何よりの合図だ。

困るのは、停留所だ。「回送」を出していても、人は立っている。私が近づくと、何人かが顔を上げ、半歩前に出る。乗れると思っている。私は速度を落とさない。落とせない。頭を下げたいが、前を見ていなければならないから、下げられない。窓越しに目が合った人の前を、私は会釈もせずに通り過ぎる。すまない、とも言えない。言う相手は、もう後ろに流れている。

回送中の車内は、静かだ。アナウンスも、降車ボタンも鳴らない。エンジンと、車体のきしみだけ。誰も握っていないつり革が、カーブのたびに一斉に右へ振れて、左へ戻る。全部がそろって、同じ方向へ。私はミラーの中で、その揺れを見ている。

歩道で、子どもが走るバスに手を振った。母親と手をつないだまま、もう片方の手を高く上げて。私は前を向いたまま、ハンドルに添えた右手の指を、二本だけ、上下に動かした。規定に、振り返してよいとは書かれていない。書かれていないだけだ。子どもがそれに気づいたかどうかは、ミラーには映らなかった。

営業所の手前に、洗車機がある。回送の終わりは、たいてい洗車だ。車を所定の位置に入れて、ブレーキを踏んで待つ。水がフロントガラスを叩き、ブラシが回り、泡が広がって、外が白く消える。何も見えない。運ぶ客もなく、守る定時もない。私はただ、ハンドルに手を置いて、泡が流れて景色が戻るのを待っている。

車庫でエンジンを切り、乗務日報を書く。運行表には、営業の区間のあいだに、細く「回送」と記された区間がある。客を乗せた距離も、乗せなかった距離も、日報の上では同じ「走行」として、キロ数に足されていく。半歩前に出たあの人のことは、どこにも書く欄がない。私は今日の総キロを記入して、ペンを置く。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。