核は強い。「柱の上で考えるな。下で考えろ」という段取りの思想、爪が抜けるのは体が柱から離れたときだという三点支持の身体、台風の翌朝に音の消えた町、夕方の窓に灯りがともる高さ。これらは架線工にしか書けない。問題は、書き手がその核を信用せず、青空と陽炎で場面を飾り、最終段で全部を主題として解説し、自分に勲章を授けて終わっていることだ。とりわけ惜しいのは、弛度や三点支持を語れるほど道具に詳しいはずの語り手が、肝心の昇る場面では工具の運用を具体に落とせていないこと。職業エッセイは、職業の手つきで一箇所でも嘘をつくと全部が嘘に見える。
「柱の上が、私を観察する人間にしてくれたのだと思う。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「○○が、私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、ハツシバナオである必然がない。しかも「観察する人間にしてくれた」と、主題そのものを名指ししてしまっている。観察者になったのなら、観察を一つ見せればいい。なったと書いてはいけない。
「空は青く澄み渡り、住宅街の電柱が陽炎の向こうに何本も並んでいた。」
青空、陽炎、並ぶ電柱。三点セットで「夏の朝の現場」を安く調達しています。二十二年柱に昇った人間がその朝を思い出すなら、出てくるのは青空ではなく、アスファルトから上がる熱気で昇柱器の金具が手に熱かったとか、汗で安全帯のベルトが滑ったとか、体に残る情報のはずです。雰囲気が身体より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。
「人と人とをつなぐ線を、自分の手で架けていくのだと思うと、少し誇らしかった気がする。」
これは通信会社のCMのナレーションであって、架線工の言葉ではない。現場の人間にとって線は「人と人とをつなぐ」抽象物ではなく、何ミリの何という線で、何キロの張力がかかる物体です。誇らしさを書きたいなら、自分の張った線がまだ生きているのを後年たまたま見上げた、といった具体でしか書けない。冒頭からスローガンを置くと、以降の具体まで宣伝に見えてきます。
「誇らしかった気がする。」「胸を高鳴らせていたように思う。」「町に灯がともるのを見たような気がした。」
架線工は、たるみが規定内かを断定し、安全帯が掛かっているかを断定して命を預ける職業です。ミリ単位で決める人間の回想が「気がする」「ように思う」で薄まっているのは、現場の身体ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに台風復旧の「灯がともるのを見たような気がした」は逃げで、この語り手なら、無線の声か、垂れていた線が張った瞬間か、何を見たかを断定できるはずです。
「先輩は地面に道具を全部広げて、ひとつずつ腰の金具に掛けていった。どの工具をどちら側に、どの順で抜くか。」
「道具を全部」「どの工具を」は概念であって観察ではない。段取りの思想を核に据えるなら、その道具に名前と位置がいる——ペンチは右、より線を切る工具は左、よく使うものは下から抜ける位置に、といった具体が一つでも出れば、思想は身体に着地します。名前のない「道具」を広げてみせても、読者には先輩の手つきが見えない。職業の論理を書く約束をしておいて、いちばん大事な所作を抽象でぼかしています。
「見える、けれど、見ない。暮らしのいちばん近くにいながら、暮らしには立ち入らない。その距離の作法を、私は柱の上で覚えた。」
窓の灯りを見て、手元の線に目を落とす——この動作だけで全部言えている。なのに直後に「見える、けれど、見ない」と要約し、「距離の作法を覚えた」と主題文に翻訳してしまう。動作が運んだ意味を、抽象語で言い直すたびに、せっかくの場面の値打ちが下がる。エッセイの主題を主題文として書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。
「意味がよく分からなかった。」
この一文は、教師の回想にも、料理人の回想にも、そのまま置ける。分からなかった中身(上で考えて何が起きると思っていたのか、昇ってから何に詰まって初めて分かったのか)を書かなければ、若手の戸惑いは存在しないのと同じです。先輩の言葉が腑に落ちる瞬間を一つ現場で見せれば、「意味がよく分からなかった」は要らなくなる。
残すべきは四つ。「上で考えるな、下で考えろ」、体が柱から離れると爪が抜けるという三点支持の身体、音の消えた台風翌朝の町、窓の灯りを見て線に目を落とす距離。削るべきは、青空と陽炎の書き割り、「人と人とをつなぐ」スローガン、留保語尾、最終段の主題解説と自己赦し。改稿では、先輩の段取りに道具の名前と位置を一つ与えて思想を身体に着地させ、観察者になったとは書かず、夕方の窓に対する一つの動作で終わらせてください。意味は動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。