ハツシバナオ(44歳・電柱の架線工22年)
二十二の年に、通信工事の会社に入った。電柱に昇って、光ファイバーや通信線を張る仕事だ。あの頃、空には細い線の網がいっぱいに広がっていて、私たちはその網を、町じゅうに広げていく役目を担っていた。人と人とをつなぐ線を、自分の手で架けていくのだと思うと、少し誇らしかった気がする。
入って間もない夏の朝だった。空は青く澄み渡り、住宅街の電柱が陽炎の向こうに何本も並んでいた。先輩に連れられて現場へ向かう車の中で、私はこれから初めて一人で柱に昇るのだと、胸を高鳴らせていたように思う。
現場に着くと、先輩は私に言った。「柱の上で考えるな。下で考えろ。上では手を動かすだけにしろ」。意味がよく分からなかった。上に昇ってから考えればいいではないか、と。先輩は地面に道具を全部広げて、ひとつずつ腰の金具に掛けていった。どの工具をどちら側に、どの順で抜くか。線をどう取り回して、どこで仮止めするか。昇る前に、ぜんぶ決めておくのだ。
昇柱器というのを足に着ける。柱に爪を食い込ませる、鉤爪のついた金具だ。爪は内側に向けて、膝を少し開いて、体重をかかとに乗せる。爪が滑るのは、たいてい体が柱から離れたときだ。腰を引くと、てこの原理で爪の先が浮いて、すっぽ抜ける。だから体は柱に近く、腹で抱くようにして昇る。安全帯は、昇りながら掛け替えていく。胴綱を一本外すときは、必ずもう一本が掛かっている——両手と両足、安全帯、そのうち三つは常に柱に預けておく。三点支持、というやつだ。
柱の上には、住み分けがある。いちばん高いところに電力線。その下に通信線。私たちが触るのは下の段だけだ。上の電力線とは、絶対に詰めてはいけない距離がある。手を伸ばせば届くようでいて、そこには越えてはいけない一線がある。私はいつも、自分の頭のてっぺんと、その線との間の空間を、体で覚えるようにしていた。怖さは、慣れてはいけない種類の怖さだった。
線を張るときは、ぴんと張ればいいというものではない。たるみを残す。これを弛度という。夏は伸びて垂れ下がり、冬は縮んで張る。いちばん暑い日にたるみが規定を切らないように、いちばん寒い日に張力がかかりすぎて切れないように、その日の気温を見て、わざとたるませる。空に架けた線は、季節のあいだじゅう、伸びたり縮んだりして呼吸している。それを見越して張るのが、架線工の腕だった。
台風の翌朝のことは、忘れられない。風で切れた線が道に垂れ下がり、町から音が消えていた。電話が通じない。データが流れない。あの静けさは、ふだん線が運んでいたものの量を、裏側から教えてくれた。一本ずつつなぎ直して、最後の一区間が通ったとき、無線で「復旧」と声が返ってきた。柱の上で、私は町に灯がともるのを見たような気がした。線が、町に戻ってきたのだ。
住宅街の柱の上は、思いのほか高い。二階の窓と同じ目の高さになる。夕方の現場では、窓に灯りがともり始める。見ようとしなくても、台所で動く人影や、テレビの青い光が見えてしまう。私はそういうとき、決まって手元の線に目を落とすことにしていた。見える、けれど、見ない。暮らしのいちばん近くにいながら、暮らしには立ち入らない。その距離の作法を、私は柱の上で覚えた。
あれから二十二年、私はずっと柱の上にいる。下で段取りをして、上では手だけを動かす。あの日の先輩の言葉の意味が、いまならよく分かる。上で考える余裕などないのだ。考えることは全部、地面の上で済ませておく。柱の上が、私を観察する人間にしてくれたのだと思う。空の細い線の網を、誰よりも近くで見てきた。今日も私は昇柱器を足に着け、町の上空へ昇っていく。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。