核は強い。映画の波と舞台挨拶の波の違い——「ゆっくりした波」に対して客席が「一斉に前のめりになる」こと、後頭部の海の上にスマホのライトが点々と灯ること、そして「登壇者A」「登壇者B」「登壇者C」という進行表の一行として監督を見る位置。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、朝の光と緊張の書き割りで場面を立ち上げ、最終段で全部を「本質」と命名して回収してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、進行表とフェーダーという道具を握らせておきながら、操作の手つきが途中で観念に逃げること。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「窓の外には朝からやわらかな光が差していて、映写室にはいつもと違う緊張が静かに満ちていた。」
やわらかな光、静かに満ちる緊張。前作の「冷たい雨」「静かに満ちていた」とまったく同じ既製品で、この書き手はもう一度同じ罠を踏んでいます。映写室の朝が本当に違うなら、出てくるのは光ではなく、いつもより一枚多い進行表の紙か、フェーダーに置いた指の汗か、開場前に一度だけ通すマイクのテストの「あー、あー」の声のはずです。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。「静かに満ちていた」は前作からの使い回しでもある。二度目は許されない。
「まだ誰も立っていない四つの印は、なんだか祈りの場所のようにも見えた。」
蛍光テープのTの字という、これ以上ない具体物を出しておきながら、結びで「祈りの場所のよう」という安い詩情に流しています。「なんだか」「ようにも見えた」の二段重ねの留保が、観察を感想に薄めている。この語り手は、まだ誰も立っていない舞台を見る回数では場内の誰より多いはずで、本当に見ているのはテープの角がもう一度貼り直された跡か、前回の養生の糊が床に残った影でしょう。祈りは要らない。Tの字だけで足りている。
「生身がいた数分間は、映画の二時間とは別の時間だったのだと思う。」「私はたぶん、しあわせに思っている。」「軽いということは、たぶん、いつでも消えうるということなのだろう。」
(最後の一文は前作からの引きですが、ここでも同じ癖が出ています。)進行表のキューに合わせてフェーダーを「半分」と決め、ハウリングの予兆を一瞬で捉える人間は、断定で生きている職業です。その人物の回想が「〜のだと思う」「たぶん」で満ちているのは、客席の心理ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに「しあわせに思っている」は、感情に名前を貼って終わらせる手で、最終段の解説(後述)と二重に効いて余韻を殺している。
「撮影可能タイムの案内が出たとたん、無数のスマホのライトが客席のあちこちで上がった。」
「無数の」「あちこちで」は概念であって観察ではない。映写室から後頭部の海を見続けてきた人間なら、ライトの上がり方には順番が見えるはずです——前から上がるのか、両端から中央へ広がるのか、案内のアナウンスが終わる前にもう一つ二つフライングするのか。それを書けば「無数の」は要らなくなる。さらに、撮影タイムは普通フラッシュ禁止・動画可否の区別があり、案内の文言(影アナの台本)を握っているのは映写室側のはずです。その台本に一度も触れないので、撮影タイムが借り物の風景になっている。
「マイク、二本立ち上げ。」/「司会が一声目を出す手前で、フェーダーに指を置いておく。」
冒頭でわざわざ「登壇者三名・司会」の四人を出し、マイクは「二本立ち上げ」と宣言したのに、四人をマイク二本でどう回したのかが最後まで書かれません。手渡しなのか、司会が一本を持って受け渡すのか、立てマイクが一本あるのか。クライマックスで監督がしゃべる瞬間、そのマイクは誰の手から来たのか。せっかく握らせた道具を、いちばん効く場所(生身がしゃべる一瞬)で使っていない。ハウリングの「予兆は空気のほうに来る」という強い一文があるのに、その予兆が実際に来た回が一度も書かれないのも同じ欠落です。
「生身と映像の境目こそ、映画館という場所の本質なのだろう。」「あの数分、客席は映画館ではなく、もっと素朴な、人が人を見にきた場所だった。」
暗転で後頭部が背もたれに戻り、観客に戻る——あの一拍の描写がすでに全部言っています。それを「本質」という抽象語で言い直すたびに、暗転の一拍の値打ちが下がる。エッセイの主題を主題文として書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。前作のレビューでまったく同じ指摘をされているのに、語り手はまた末尾で自分に判子を押している。「人が人を見にきた場所」も、観客が前のめりになった後頭部の描写を、わざわざ言葉で説明し直しただけ。
「それだけは、これからも変わらない。」
この一文は、前作の第一稿の末尾とほぼ同一で、教師の回想にも職人の回想にもそのまま置ける汎用シールです。三作目で同じ判子を押すのは、もはや癖ではなく依存です。語り手の手柄を語り手自身が要約して締めるのをやめ、最後の操作(フェーダーを落としきる、本編の頭を確かめる)の動作で終わらせること。意味は動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。
残すべきは四つ。映画の「ゆっくりした波」と舞台挨拶の「一斉に前のめり」の対比、後頭部の海に点々と灯るスマホの光、監督を「登壇者A」と呼ぶ進行表の距離、そして暗転の一拍で客が「観客に戻る」切り替わり。削るべきは、朝の光と緊張の書き割り、「祈りの場所」の比喩、留保語尾、最終段の「本質」「人が人を見にきた場所」の主題解説、そして「これからも変わらない」の判子。改稿では、撮影タイムのライトの上がり方を順番で書いて「無数の」を消し、マイク二本を四人でどう回したかを一度だけ具体的に書いて道具の論理を立て、結びは説明ではなくフェーダーの動作で閉じてください。