舞台挨拶の、日
スクリーンの前に、生身が立つ

ハットリジン(39歳・映画館映写技師17年)

舞台挨拶付きの上映の日、映写室は普段と違う仕事をする。いつもなら私は光量とピントだけを見ていればいい。けれどその日は、私の手元に進行表が一枚置かれる。司会の進行に合わせて、場内灯を上げたり落としたり、登壇者用のマイクの音量を見たりする。スクリーンの前に、生身の人間が立つからだ。窓の外には朝からやわらかな光が差していて、映写室にはいつもと違う緊張が静かに満ちていた。

進行表にはキューが並んでいる。「開場」「影アナ」「本編前舞台挨拶・登壇者三名」「撮影可能タイム九十秒」「登壇者退場」「上映開始」。私はそれぞれの行の左に、自分のする操作を鉛筆で書き込む。場内灯フェーダー、半分。マイク、二本立ち上げ。フェーダーを上げきる、ではなく、半分。生身が立つときは、客席が完全な暗闇では困る。顔が見えなければ、舞台挨拶は成立しないからだ。

登壇者の立ち位置には、舞台にバミリがしてある。蛍光の養生テープで、スクリーンの前の床に小さなTの字が三つ。司会のぶんを入れて四つ。あそこに立ってください、という無言の印だ。リハーサルはない。本番の客が入る前に、私は窓から、誰もいない舞台のテープだけを見ている。Tの字が四つ、暗い床で光っている。まだ誰も立っていない四つの印は、なんだか祈りの場所のようにも見えた。

マイクのハウリングがいちばん怖い。場内のスピーカーから出た音を、登壇者のマイクがもう一度拾うと、あの嫌な鳴きが起きる。だから登壇者がスクリーンの真ん前——スピーカーのいちばん近く——に立つ舞台挨拶は、音量の余裕がほとんどない。私は司会が一声目を出す手前で、フェーダーに指を置いておく。鳴きの予兆は、音が出るより一瞬早く、空気のほうに来る。十七年、その一瞬を待つことだけは、機械に渡していない。

司会が登壇者を呼ぶ。三名が袖から出て、テープのTに、ひとりずつ立つ。そのとき、客席の後頭部がいっせいに動いた。映画のときの波とは、まったく違う動きだった。映画の波は、ばらばらの他人の後頭部が同じところで一つになる、ゆっくりした波だ。けれど舞台挨拶の客席は、一斉に前のめりになる。背もたれから背中が浮き、頭が前へ突き出る。そして撮影可能タイムの案内が出たとたん、無数のスマホのライトが客席のあちこちで上がった。後頭部の海の上に、小さな白い光が点々と灯る。私はその光を、上から見ていた。

進行表の上では、舞台の三名は「登壇者A」「登壇者B」「登壇者C」だ。Aは監督、Bは主演、Cは助演。けれど私の紙には役名はなく、立ち位置の記号と、マイクの番号と、しゃべる順番だけがある。私は監督の作品を何百回と回してきたのに、その本人を、進行表の一行として見る位置にいる。誰のいちばん近くにいて、誰のことをいちばん知らない、そういう距離が、この窓の内側にはある。

挨拶が終わる。司会が締めて、三名が頭を下げ、袖へ消える。撮影のライトが一つ、また一つと下りる。進行表の最後のキュー、「上映開始」。私はフェーダーを落としきる。場内が暗転する。その暗転の一拍で、客席が切り替わるのがわかる。さっきまで前のめりだった後頭部が、背もたれに戻り、スクリーンのほうへ、静かに向き直る。生身を見ていた客が、観客に戻る瞬間だ。私はその切り替わりを、たぶん場内の誰よりも先に、上から見ている。

本編が出る。後頭部の海は、もう前のめりではない。あの一斉の動きは消え、いつものゆっくりした波が、また戻ってくる。光の点はすべて消えている。生身がいた数分間は、映画の二時間とは別の時間だったのだと思う。あの数分、客席は映画館ではなく、もっと素朴な、人が人を見にきた場所だった。

舞台挨拶の日、私はいつもより多くのものを見張る。場内灯、マイク、進行表、テープのT。けれどいちばん見ているのは、やはり後頭部だ。生身と映像の境目こそ、映画館という場所の本質なのだろう。光の前に立つ生身と、闇の中で像を見る観客と、その両方を一度に見られる窓の内側にいられることを、私はたぶん、しあわせに思っている。それだけは、これからも変わらない。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。