リハーサルの、客席
空席に座る一人と、本番ではない本番

ヒビノカオル(38歳・市民会館の舞台係16年)

本番の客席は満ちている。けれどリハーサルの客席は、たいてい空っぽだ。私は十六年、その二つの客席を袖から見てきた。満ちた客席のことは、誰もが語る。語られないのは、空いた客席のほうだ。

リハーサルの客席は、海のように静かだ。一列目から最後列まで、座面が等しく上を向いて、誰も座っていない。照明はまだ作業灯のままで、客席の半分は薄暗い。その薄暗がりの中に、ときどき一人だけ、人が座っていることがある。

たいていは、出演者の家族だ。ビデオの位置を決めに来た親。三脚を立てて、ファインダーを覗いて、椅子を一列うしろにずらして、また覗く。あるいは、出番を待つ子の祖母。膝の上に手提げを置いて、ただ座っている。私は袖から、その一人を見ている。空っぽの客席に、ぽつんと座る一人を。

場当たりが始まる。進行表を手に、舞台監督が「はい、次、三番」と声をかける。出演者が立ち位置に着く。私は床にバミリのテープを貼っていく。テープは色で分けてある。緑がピアノ、黄が司会、青が合唱の前列。膝をついて、立ち位置の足元に、小さな十字を貼る。本番でその十字は、衣装の裾に隠れて、客席からは見えない。

照明合わせの声が、客席のほうから飛んでくる。「もう少し前へ」。出演者が一歩前に出る。「もう半歩」。半歩出る。スポットの輪の中に、その人の顔がちょうど収まる。光と人の位置を、一センチ単位で合わせていく作業を、空席が見ている。リハーサルは本番ではない、と誰もが言う。けれど初めて舞台に立つ人にとっては、このリハーサルが、すでに本番なのだ。

その朝のリハーサルで、独唱の女の子の声が、震えていた。空っぽの客席に向かって歌っているのに、声が震えていた。客席にはお母さんが一人、ビデオの三脚の横に座っているだけだったのに。その子にとっては、その一人の客席が、満員の客席と同じ重さだったのだと思う。

そして本番が来る。リハーサルで完璧だったその子が、本番の舞台で固まった。声が出てこなかった。逆に、リハーサルでボロボロだった合唱が、本番ではぴたりと揃った。なぜそうなるのか、私にはわからない。わかったためしがない。私はただ、その両方を袖で見ている。リハーサルの震えも、本番の沈黙も、本番の奇跡も。何も言わずに。

本番前、袖は静まりかえる。さっきまで場当たりでざわついていた客席の私語も、もう聞こえない。出番を待つ人の息づかいだけが、暗がりに満ちている。その静けさの中で、私はいつも思う。リハーサルにも、本番があるのだ。空っぽの客席にも、たった一人の観客がいるのだ。本番ではないものなど、本当はどこにもないのだ。

十六年、私は二つの客席を見てきた。満ちた客席と、空いた客席。けれど本当に覚えているのは、空席にぽつんと座っていた一人のほうだ。あの三脚の横の母親。あの膝に手提げを置いた祖母。リハーサルの客席は空っぽだったが、空っぽではなかった。それが、舞台係十六年で私が知ったことのすべてなのかもしれない。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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