核は強い。「シミに聞くな、客に聞け。でも客は覚えていない。だから服に聞け」という師匠の一言、血液を温水で固めてしまった失敗、「ここまで薄くなれば十分です」という客の一言。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用しきれず、商店街と検品ライトの書き割りで場面を立ち上げ、最終段で全部を解説して回収してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、シミの種類と時間で落ちるか落ちないかを断定する職人を語り手にしながら、肝心の場面で語尾が逃げていること。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「シミの履歴が、私をいまの私にしてくれた。作業台の上の薬剤の瓶は、今日も静かに並んでいる。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、ヒジカタアンである必然がない。道具の静物画で締めるのも、余韻の偽装です。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めてしまっている。
「服には持ち主の思い出が宿っている——そんなふうに、当時の私は服を見ていたように思う。」
「服に思い出が宿る」は、生成された叙情の常套句です。しかもこのエッセイは、その後で「服に聞け」=服はシミの物理的履歴を語る、という冷えた職業観に着地する。それなら冒頭の「思い出」は、後の発見と衝突させて捨てるための踏み台のはずで、「ように思う」とぼかして置いておく飾りではない。安く叙情を調達した跡が見えます。
「当時の私は服を見ていたように思う。」「心苦しいことなのだと、そのとき知ったのかもしれない。」
シミ抜き職人は断定で生きている職業です。水性か油性か、落ちるか落ちないか、どこで手を止めるか。綿棒のテストで色が動くか動かないかを見て決める。その人物の回想が「〜ように思う」「〜かもしれない」で逃げるのは、心理描写ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに「心苦しいことなのだと知ったのかもしれない」は、感情の核心を自分でぼかしており、最も書くべきところで引いています。
「襟の黄ばみは、薄くはなったが、消えてはいなかった。」
「襟の黄ばみ」は概念であって観察ではない。三十一年台に立った人間なら、襟の黄ばみが何のシミかを言えるはずです。襟の黄ばみは多くが皮脂の酸化で、時間が経つと茶色く焼ける——だから新品同様には戻らない。なぜ落ちないのかを物理で一行書けば、客の「十分です」がはるかに重くなる。職業の論理が抜けているので、限界の場面がただの「うまく落ちなかった話」に見えます。
「綿棒に薬剤を含ませて、目立たないところでテストする。じわりと色が動けば落ちる。動かなければ、繊維が握って離さない。」
ここはこのエッセイで最も良い手つきです。だからこそ惜しい。冒頭で薬剤の瓶を五本も並べておきながら、クライマックスの「これは落ちません」の場面では、どの瓶を、どの順で当てて、それでも動かなかったのかが書かれていない。綿棒のテストという見せ場の道具を、いちばん効く限界の場面で使っていない。せっかく並べた瓶が、ただの背景の小道具で終わっています。
「シミ抜きとは汚れを消す仕事だと思われがちだが、本当は、そのシミがどこから来たのかを聞く仕事なのだと、いまでは思う。」
完全に解説文です。師匠の「服に聞け」がすでに全部言っている。同じ内容を抽象語で言い直すたびに、師匠の一言の値打ちが下がっていく。エッセイの主題を主題文として書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。読者は「聞く仕事」だと説明されたいのではなく、書き手が実際に服に聞いている場面を見たい。
「あの失敗の手触りを、私の指はまだ覚えている。」
この一文は、料理人の回想にも、職人の回想にも、そのまま置ける汎用句です。「手触り」と言うなら、固まった血が指の腹にどう感じられたのか——ざらついたのか、繊維がこわばったのか——を書かなければ、身体の記憶は存在しないのと同じ。固めてしまった失敗そのものは強いのに、締めの一文で観念に逃げています。
残すべきは四つ。「シミに聞くな、客に聞け。だから服に聞け」、袖口の位置とにじみの輪郭で履歴を読む手つき、温水で血液を固めた失敗、そして「ここまで薄くなれば十分です」の一言。削るべきは、思い出が宿るという叙情の踏み台、「ように思う」「かもしれない」の留保語尾、最終段の主題解説。改稿では、襟の黄ばみが皮脂の酸化だと一行で押さえ、限界の場面では実際に綿棒を当てて色が動かないのを見せること。意味は薬剤の動きが運ぶ。説明が運ぶのではない。