ヒジリタクマ(50歳・義眼技師26年)
義眼を作って二十六年になる。目は心の窓だとよく言われるけれど、私が作っているのは、その窓のない側に、もう一枚の窓を据える仕事だ。本物そっくりに作ることが正解だと、はじめのうちは信じていた。
二〇〇〇年の春、私は名古屋の小さな義眼製作所に入った。窓の外には桜が散っていて、作業場にはアクリル樹脂の甘い匂いと、研磨の細かな粉が、午後の光の中に静かに舞っていた。机の上には、大小さまざまの筆と、絵の具の皿が並んでいたと思う。
義眼は、できあいの品を選ぶものだと思っている人が多い。実際には、一人ずつ違う。まず眼窩の型を採る。義眼を入れる側のくぼみの形は、人によってまるで違っていて、同じ器はふたつとない。その器に合わせてアクリルを盛り、削り、磨く。磨きの工程は気が遠くなるほど長く、指の腹で何度も表面を確かめた。
いちばんむずかしいのは、虹彩を描くことだった。瞳の、あの茶色や灰色の輪。残っているほうの目を見て、それを写し取る。私は最初、絵の具を溶いて、見たままの色を一筆で塗ろうとした。茶色の目なら、茶色を。そうやって塗った虹彩は、たぶん、それなりに似ていたのだろうと思う。
師匠は、私の塗った虹彩を光にかざして、しばらく黙っていた。それから言った。「そっくりに描くな。生きてるように描け」。私はその意味を、しばらく考えていた。師匠は続けた。「瞳の色は一色じゃない。何層も重ねろ」。よく見ろ、と言われて、私は装用者の残ったほうの目を、初めてちゃんと見た。
瞳は、一色ではなかった。虹彩には放射状の細かい筋が走っていて、瞳孔の周りには、別の色の輪がにじんでいる。明るいところと暗いところで、色が違う。そして驚いたことに、その人の左右の目さえ、まったく同じ色ではなかった。私はそれまで、目を見ているようで、何も見ていなかったのだと思った。
装用者と話す時間も増えた。片目を義眼にした人の多くが、「目線」を気にしていた。義眼は、生きた目ほどには動かない。だから視線がずれる瞬間がある。前髪で隠す人がいた。逆に、堂々と見せる人もいた。子どもの義眼は、何度も作り替えた。成長するにつれて眼窩の形が変わるから、義眼も、その都度、新しくしてやらなければならない。
完成した義眼を、初めて入れる日。私はその人に、感想を聞かない。鏡を渡して、少し離れて待つ。鏡の中の顔が、答えだからだ。何か言葉にしてもらおうとは思わない。その人が鏡を見たまま、ふっと表情をゆるめる。その一瞬を、私は二十六年、見てきた。
あれから、私は瞳の色の観察者になった。電車でも、店先でも、人の目をつい見てしまう。一色の瞳など、この世にひとつもない。みんな、何層もの色を重ねて、いまの色をしている。そっくりに描くのをやめたあの日が、私をいまの私にしてくれた。机の上の筆は、今日も静かに並んでいる。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。