ヒジリタクマ(50歳・義眼技師26年)
義眼を作るとき、いちばん最初にやるのは、眼窩の型を採ることだ。アクリルを盛るのも、虹彩を描くのも、そのあとの話になる。器の形がわからなければ、何も始まらない。窓の外は静かで、製作所にはアルジネートの、あの少し甘いような匂いが満ちていた。
使うのは、アルジネートという印象材だ。歯医者で歯型を採るときの、あのピンク色の粘る粉と同じものだと言えば、たいていの人はああ、と顔をする。粉を水で溶く。この水の温度で、固まるまでの時間が変わる。冷たい水なら遅く、ぬるければ早い。夏と冬で、同じ分量でも固まり方が違ってくる。私はそれを、ボウルの縁を指で叩いたときの返ってくる感じで計っている。硬すぎても柔らかすぎてもいけない、ちょうどいい硬さというものがある。
溶いたものを、専用の匙で眼窩のくぼみに流し込む。この前に、装用者へ説明する順序が決まっている。まず、痛くないこと。次に、数分でかたまること。最後に、目を閉じていてくださいと言う。順番を間違えて、先に「目を閉じて」と言うと、人は身構える。何をされるかわからないまま暗くなるのは、誰だって怖い。だから怖くないことを先に渡してから、暗くしてもらう。型取りは、たぶん、この声かけの順序が半分なのだと思う。
注入してから固まるまでの数分、装用者はまぶたを閉じて、じっと座っている。私はその数分のあいだ、ときどき「もうすぐです」と声をかける。沈黙が長いと、人は時間を長く感じる。手のひらをそっと肩に置くと、それだけで息が深くなる人もいる。言葉のいらない信頼が、その数分のあいだに通う。
固まった型を、そっと外す。外れる瞬間に、ちいさな手応えがある。きゅっ、と一拍だけ吸いつくものが離れる、あの感じだ。この手応えで、私は採れたか採れていないかが、外す前からだいたいわかる。気泡が入っていたり、奥まで入りきっていなかったりすると、手応えが軽い。軽い型は、見るまでもなく採り直しになる。
採れた型を光にかざすと、ずいぶんいろいろなことが読める。眼窩の奥行き、底のカーブ、まぶたの裏が当たっていた癖。型は固まって動かないのに、私はそこから、その人がまばたきするときのまぶたの動きを想像している。静止した型の中に、動きが残っている、とでも言えばいいのだろうか。同じ人でも、左右の眼窩はまるで違う。深さも、傾きも、口の開き方も違う。だから私は、右と左を必ず別々に記録する。同じ人の中に、別の器がふたつある。
型を採る時期も、見きわめが要る。手術の直後の眼窩は、まだ腫れている。腫れが引ききらないうちに採った型は、腫れの形を写し取ってしまう。腫れが落ち着けば、その型は合わなくなる。早すぎる型は、ただの無駄になる。だから私は、急かされても、まだですと言うことがある。待つのも仕事のうちなのだ。
いちばん難しいのは、子どもの型取りだ。数分じっとしていてください、が通じない年齢がある。泣く、動く、目を開けてしまう。そういうときは、一度で採ろうとしない。今日はここまで、と回数を分ける。匙を見せて触らせて、固まるところを手の甲で実演して、それから本番にする。段取りで、子どもの数分を作るのだ。大人の数分と、子どもの数分は、長さが違う。
そういうわけで、私は今日も、誰かの目のくぼみに、ピンクの粘るものを流している。型取りは地味な工程だ。けれど、ここで採った器の上に、すべてが乗っていく。型取りこそが、義眼づくりの、すべての土台なのだ。最初の数分を丁寧に採ること——それが、たぶん、俺の仕事のいちばん最初の一歩なのだ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。