核は強い。義眼が曇るのと同じ年月で顔のほうも変わっていくという観察、「軽くなった」という一言、そして装用者が磨きを待つ待合の時間。この三点だけで一本立つ。とりわけ「義眼は変わらないのに、入れる側が変わる」は、この職業でなければ書けない発見だ。問題は、書き手がその核を信用せず、人生だの寄り添うだのの常套で額縁を作り、最終段で主題を自分の口で解説して回収してしまっていることだ。磨きの段階を細かく書ける手をもちながら、肝心の場面で手つきが甘くなる。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「人生に寄り添う仕事、と言ってしまえば聞こえはいいのだが、実際にやっているのは、ただの研磨である。」
「人生に寄り添う仕事」は、介護にも教育にも美容にも貼れる汎用シールです。これを一度出してから「ただの研磨である」と引っくり返す構えは、否定しているようでいて、結局その安いフレーズを読者の頭に置いてしまっている。本当に常套を斬りたいなら、そもそも口にしないこと。研磨の話だけで始めればいい。否定形で導入するのも、生成された“それっぽい謙遜”の典型です。
「装用感の正体を返すこと——それが、たぶん、俺の仕事なのだ。」
主題を主題文として書いてしまっています。「〜が、俺の仕事なのだ」は、どの職業エッセイの末尾にも置ける締めの判子で、ヒジリタクマである必然がない。しかも直前の段で「軽くなった、と言ってもらえたら、その日はそれでいい」と一度きれいに閉じているのに、もう一段かぶせて自分で意味を確定させている。「軽くなった」の一言がすでに全部言っているのだから、技師が訳知り顔で言い直すたびに、その一言の値打ちが下がります。
「その滑らかさを、人は重さの言葉で語るのだと思う。装用感の正体が、たぶん、これだ。」/「私はその人の片方の目を、二十年磨き続けている。」
「〜のだと思う」「たぶん」が、いちばん効かせたい説明の真ん中に置かれている。二十六年やってきた技師が、装用感の正体を「たぶん」で語るのは、観察の自信ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。曇りで増えた摩擦が消えてまばたきが滑らかになる——これは推測ではなく、本人が毎日触って確かめている物理です。留保語尾は、核の手前で打たず、捨てること。
「雑誌をめくる人、目を閉じている人、窓の外を見ている人。眼帯の人は、なんとなく顔を伏せがちになる。」
待合の描写が、駅の待合室でも通用する一般名詞の列挙で止まっています。この技師は作業の手元から横目で見ている、という設定なのだから、見えるのは「雑誌をめくる人」一般ではなく、その人が予備の義眼で来たか眼帯で来たかによる、待ち方の違いの具体のはずです。眼帯の人が「顔を伏せがち」というのも概念で、観察ではない。片目だけ視界がない人が雑誌をどう持つか、窓の外をどちら側で見るか——そこまで書いて初めて、横目で見てきた二十年が立ち上がる。
「リューターに大きめのバフをつけて、粗い研磨剤で曇りの層を落とす。次に細かいバフに替え、研磨剤も細かいものにする。最後は、ほとんど何もつけない布で、ただ撫でるように当てる。」
段階は書けているが、すべて「大きめ」「細かい」「ほとんど何もつけない」という相対語で、固有名がひとつもない。デビュー作では「面相筆」「印象材」と道具を名で呼んでいた書き手が、ここでは「研磨剤」「布」と一般名のまま通している。本当に二十六年磨いてきたなら、粗・中・仕上げの研磨剤に呼び名があり、最後の布が何の布か(ネル、セーム革)を当然のように呼ぶはずです。道具を名で呼べないと、工程の真実味が一段落ちる。
「見えない目を、見えるように磨くのではない。その人の顔に、また馴染むように磨くだけだ。」
これはこのペルソナの信条そのもので、デビュー作の「writer-hijiri」紹介文と同じことを言っている。悪くはないが、最終段でわざわざ言い直すと、エッセイが自分の解説書になります。「馴染む」というテーマは、第4段の「同じ器が、いつのまにか別の器になっている」がすでに動作で語り終えている。抽象でまとめ直すより、その具体を信じて黙るほうが強い。
「そういうわけで、私は今日も、誰かの片目を磨いている。」
「そういうわけで、私は今日も〜している」は、職人エッセイの汎用の落とし方です。パン屋にも靴職人にも時計師にもそのまま置ける。今日というなら、今日のその一人(予備で来たのか眼帯で来たのか、何を磨いたのか)を書かなければ、いまだ誰でもない一日になります。
残すべきは四つ。曇りが装用感を先に知らせること、「義眼は変わらないのに、入れる側が変わる」の発見、待合で待つ人の待ち方の違い、そして入れた瞬間の「軽くなった」。削るべきは、冒頭の「人生に寄り添う」の常套、各所の留保語尾、そして最終二段の主題解説(「俺の仕事なのだ」「馴染むように磨くだけだ」)。改稿では、磨きの研磨剤と布を固有名で呼んで工程の真実味を立て、「軽くなった」で言い切って、その先を一行も足さないこと。意味は「軽くなった」が運ぶ。技師が運ぶのではない。