パンフレットの、補充(第二稿)
空いた段の幅を、私は毎朝かぞえる

ヒラギノマチ(53歳・駅前観光案内所25年)

私は旅をしない。駅前の観光案内所に二十五年いて、旅に出る人の最初の十分だけを毎日見ている。けれど人の顔より先に、減ったラックを見る。朝いちばんに、夜のあいだに空いた段の幅を、指で測る。減り方は、いつも同じところから始まる。

目の高さの段の「食べ歩きマップ」が、まず空く。輪ゴムで五十枚に束ねて挿しておくと、朝には二束分の幅が空いている。次が「日帰り温泉」、一束ぶん。観光協会が帯封で二百枚届けてくる「歴史散策コース」は、いちばん良い場所に挿しても、一週間で五、六枚しか抜けない。協会の人が刷りたい町と、改札を出た人が歩きたい町は、別のところにある。

補充は、空いた幅に合わせて束を出す。食べ歩きは三束、温泉は一束、歴史散策は、帯封を切らずに月をまたぐこともある。倉庫から束を抱えてくると、指が厚みを覚えていて、もう何枚減ったかが分かる。私は毎朝、その厚みをかぞえている。誰も投票したつもりはない。それでも抜かれた幅が、この町でいちばん正直な数字だ。

季節ものは、暦では替えない。紅葉のパンフレットが三日続けて一枚も減らなくなった朝、私は仕舞いどきだと決める。まだ二枚残っていても、その二枚は抜く。早すぎれば気が早いと笑われ、遅すぎれば散ったあとの紅葉を勧めることになる。色づきの便りより、ラックの止まり方のほうが正確だ。人の足は、暦の少し前に季節を見限る——のではなく、足が見限った日を、私が暦より先に知るだけだ。

廃刊のパンフレットには、最後の一束がある。発行が止まると決まると、もう補充されない。だんだん薄くなって、ある朝、最後の一枚が抜かれて段が空く。この春に空いたのは、駅裏の銭湯「松の湯」のものだった。番台のおばあさんが店をたたみ、刷りも止まった。最後の一枚を抜いていったのが誰なのかは、分からない。私はその幅に別の束を挿し、松の湯の頁が一枚も町に残っていないことを、自分だけが知っている。

手に取って戻されたパンフレットは、位置がずれている。きっちり挿し直す人はいない。少し斜めに、隣との間隔を狂わせて戻る。私は朝、そのずれを直す。直しながら、ゆうべここで一つ、広げて、迷って、やめた旅があったことを知る。抜かれた一枚は人気だが、ずれた一枚は、迷いだ。私が町から預かっているのは、その迷いのほうかもしれない。

困るのは、「この店、まだあります?」と聞かれたときだ。三年前、客が指したのは、二年落ちの刷りに載った蕎麦屋だった。私はあると答え、客は戻ってきて、閉まってましたよ、と言った。それから私は、載っている店に電話をかけて確かめるようになった。情報は、刷った瞬間から古び始める。閉店した店の頁を、私はそれまで、知らずに渡し続けていた。

新しいパンフレットは段ボールで届く。封を切って、まだ誰の手にも触れられていない束をラックに挿す。明日の朝、どの段が空いているかは、もう分かっている。それでも私は、減らない段にも同じ手つきで挿す。減らない一枚を、それでも誰かが抜く朝のために。旅をしない私は、抜かれた幅と、ずれた一枚と、最後の一束を、毎朝直しながら、この町を測っている。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。