目利きの、教え方(第二稿)
若い衆に魚の見方を教える朝

ヒラノソウイチ(67歳・市場仲卸45年)

店に二十二の若い衆が入った。魚の見方を教えてくれと言う。まず氷の組み方から教えた。腹を下にして、エラのほうへ水が抜けるように敷く。溶けた水に腹が浸かれば身がだれる。氷の角は立てて積め、寝かせると早く溶ける。ここまでは、口で言える。

目の濁りも言える。獲れたては澄んだガラス玉だ。時間が経つと白く曇り、最後は牛乳を一滴落としたように濁る。何尾も並べて、曇りの段から段を指さした。エラ蓋に指をかけてめくる。血の赤を見ろ、と言う。茶に沈んだら古い。尾の付け根を握れ、張りが残っていれば指を押し返す。若い衆はメモ帳に書きつけた。ここまでは、文字になる。

その先は文字にならない。目が同じに澄み、エラが同じ赤、尾が同じだけ押し返す——そういう二尾が並ぶ朝がある。私は片方を取る。なぜそれかは言えない。だが手は言える前に動いている。両手に一尾ずつ持って、手首で重さを較べる。下になった手のひらに、腹を二度押しつける。鼻を近づけて、潮のにおいの奥を嗅ぐ。それで右を台に戻し、左を箱に入れる。理由は出てこない。動きだけが、もう決めている。

若い衆に、その動きは見せられる。だが見せても、同じには選べない。だから並べる。私が箱に入れた一尾と、若い衆が選んだ一尾を、台に二尾、頭をそろえて置く。何も言わない。ただ並べて見せる。何日も、何十回も並べる。ある朝、若い衆が「こっちだ」と指した手が、私の手と同じ高さに浮いた。教えたのではない。手が、勝手にそろった。

競り場の照明は、青白い。あの光の下では、赤身の赤が一段くすんで見える。だから新米のころは、店に運んでから「あれ、こんな色だったか」と何度も思った。いまは光の分を頭の中で足し戻して見る。若い衆にも「ここの色は引いて見ろ、店の蛍光灯でまた変わる」と言う。これは口で言える。光の癖は、覚えられる。

このごろの若い衆は、魚をスマホで撮る。あとで写真を見て覚えると言う。目の濁りもエラの赤も、写真によく写る。色なら、覚えられる。だが写真には、エラ蓋を開いた指に返ってくる硬さが写らない。腹を押したときの、戻りの早さが写らない。手のひらに乗せた重さの、ほんの少しの違いが写らない。覚わるのは、目で見える分だ。覚わらないのは、指に来る分だ。

四十五年で、口に出せたのは、目とエラと尾と、光の癖まで。その先――同じ二尾から左を取る理由は、ただの一度も言えたためしがない。それでいい。私は言えないものを、手から手へ渡している。今朝も三時に市場が動き、若い衆が箱の前で、二尾を持ち上げて手首で較べていた。その手が、私の手より、ほんの少しだけ早く一尾を戻した。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。