目利きの、教え方
若い衆に魚の見方を教える朝

ヒラノソウイチ(67歳・市場仲卸45年)

このごろ、店に若い衆がひとり入った。二十二だ。魚の見方を教えてくれと言う。教えてやりたいと思う。けれど、いざ口を開いてみると、教えられることと、どうしても教えられないことがあるのだと、いまさらながら気づかされるのだった。

朝の市場は、いつも静かなざわめきに満ちている。発泡スチロールの箱の中で、氷が魚を抱いている。氷の組み方にも作法があって、腹を下にして、エラのほうへ水が抜けるように敷く。氷が溶けて魚が水に浸かれば、身がだれる。そういうことから、まず教える。

目の濁りは、言葉で教えられる。獲れて時間が経つほど、目は白く曇っていく。澄んだガラス玉のような目が、だんだん濁ってきて、最後は牛乳を落としたように白くなる。「この曇り具合を覚えろ」と言って、何尾も並べて見せる。これは段階があるから、言える。

エラの色も言える。エラ蓋に指をかけて、めくる。鮮やかな赤、それも血の赤だ。それが時間とともに、茶色く、土気色に沈んでいく。「指でめくって、赤を見ろ」と言えば、若い衆はメモ帳に書きつける。尾の付け根の張りも教える。ぴんと張った尾は、まだ生きの張りを残している。

だが、その先がいけない。目の濁りも同じ、エラも同じ赤、尾の張りも同じ——そういう二尾が並んだとき、私はどちらか一尾を選ぶ。なぜ選んだのか、と問われると、答えに詰まる。言葉にしようとすると、嘘になる。「なんとなく」では教えにならないし、理屈をつければ、それはあとからこしらえた理屈になってしまうのだった。

だから、こう教えるしかない。私が選んだ一尾と、若い衆が選んだ一尾を並べて、台の上に置いて、黙って見る。何も言わない。ただ並べて見る。しばらくして、若い衆が「こっちですか」と小さく言う日が、いつか来る。来ない日もある。それは、こちらにもどうにもできないことなのかもしれない。

このごろの若い衆は、魚をスマホで撮る。あとで写真を見て覚えると言う。目の濁りも、エラの赤も、写真ならよく写る。それはそれでいい。だが、競り場の照明は妙な色をしていて、白い光の下では魚の赤が違って見える。写真に写るのは、その照明の下の色だ。手に取って、自分の指で重さを確かめた魚の記憶とは、どこか違うのではないかと思う。

四十五年やってきて、言葉にできたのは、たぶん半分だ。残りの半分は、ついに言葉にならなかった。けれど、いまならこう思える。言葉にできないものこそ、本物の目利きなのだ。教えられないものを抱えて、それでも教えようとすることの中に、この商売の値打ちがあるのだろう。市場は今日も三時に動き出し、若い衆のメモ帳が、今日も一行ずつ埋まっていく。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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