ヒラノソウイチ(67歳・市場仲卸45年)
一年でいちばん高くて、いちばん忙しいのは、十二月の二十九日と三十日だ。年の瀬の活気が市場いっぱいに満ちて、誰もが浮き立っている。この二日で、町じゅうの正月の魚が、ここを全部通り過ぎていく。数の子、ブリ、マグロ。普段の倍の荷が入って、普段の倍の値がつく。
数の子は樽で来る。塩の利いた、黄色い卵の塊が、木の樽にみっしり詰まって、年末だけ床に並ぶ。普段はこんな樽を置く場所もない。二十九日の朝、その樽が通路の端まで列を作ると、ああ今年も来たか、と思う。塩を払う手が、年末は荒れて、あかぎれが切れる。
ブリの値は、年末に向かって坂を上る。十二月の頭で一本いくら、二十日でいくら、二十九日でいくら——同じ魚が、日を追うごとに値を上げていく。三十日の朝がてっぺんだ。買い手はそれを承知で買う。「正月だから」と言って、高い値に手を打つ。値切らない。値切らないのが、年末の作法だ。
四十五年で、買われていく正月の魚の中身が変わった。昔は、丸ごと一本のブリを背負って帰る家があった。台所で家の者がさばいて、頭は粗汁、身は照り焼き、残りは正月の間ずっと食べる。いまは丸ごと一本を買う家が減った。切り身が、白いトレーに四切れ、ラップで包まれて出ていく。さばける手が、町から減ったのだろう。
それでも、年末の市場には正月の顔が来る。普段は来ない人が来る。一年に二日だけ顔を出す客がいて、「今年もよろしく」と言って、いちばん高いブリの前で立ち止まる。その顔を、私はだいたい覚えている。去年より痩せたな、とか、今年は奥さんが来たな、とか。魚を渡しながら、その家の一年を、勝手に読んでいる。
三十一日の昼で、年内の市場は閉まる。それから三日、休市になる。元日に一度、忘れ物を取りに市場へ行ったことがある。誰もいない競り場は、体育館のように見えた。あれだけ魚と人で埋まっていた床が、がらんとして、天井がやけに高い。長靴の足音が、自分のものだけ響いた。年末の喧騒が嘘のようだった。
年が明けると、初競りがある。マグロの大物に、景気のいい値がつく。ご祝儀相場だ。普段の何倍もの札が出て、手締めの音が競り場に響く。一本締め、三本締め。その音を聞くと、ああ今年も始まったと、背筋が伸びる思いがするのだった。けれど、その派手な一日が過ぎると、一月の市場は、潮が引いたように静かになる。
年末はあかぎれの手で、長靴のまま年を越す。除夜の鐘を、私は店の片づけをしながら聞いている。家に帰っても、布団に入ればもう三時だ。それでも、二日と少し休めば、また初競りの手締めが鳴る。市場というのは、町の台所なのだ。町が正月を迎える支度を、その手前で全部引き受けている場所なのだと、いまになって思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。