一月の第三週。研究支援課の波多野ひよりは、十二月から委員会の事務局を二つ持たされている。コンプライアンス委員会と、業務点検委員会。委員長はどちらも杉浦。学務課の同期・梶田が、月曜の夕方にカウンターへ来る。
ひより、画面に研修の報告書の様式を出している。梶田はカウンターにもたれて、携帯で動画を流している。音声が少し速い。
梶田研修、いま見てる
ひより二倍で
梶田分かる?
ひより声が高い。……今年の受講率、百パーセント
梶田すごいじゃん
ひよりアンケートに答えないと、修了にならないから。四百十二人、全員
梶田じゃあ全員見たんだ
ひより再生時間のログがある。動画は三十二分。半分の人が、十六分で終わってる
梶田俺もそっちに入る
ひより報告書の欄は、開催日と、対象者数と、受講者数。それと「開催しました」に丸
梶田見たかどうかの欄は
ひよりない
動画の中の声が「確認を、徹底しましょう」と速く言う。梶田、音を消す。
梶田看護の実習の時間割、ばれた
ひより二コマ続けなきゃいけないやつ
梶田実習先の病院の指導の人が、学生に「時間が足りないね」って言って、学生が親に言って、親が学務課に電話した。課長が、担当者の確認不足で顛末書を、って
ひより担当者って
梶田十二月に、来年度の案を出したのが俺。去年と同じに組んだ。去年の人は異動、その前の人は退職
ひよりその前は
梶田ずっと一コマ。二十年くらい
ひより二十年で、最後の一人が梶田くん
梶田顛末書、明日まで。様式に「担当者」と「確認者」の欄があって、確認者は空けといた。確認した人、いないから
ひより判子は
梶田シャチハタで押したら、課長に「シャチハタ不可」って返された
ひより、席を立って、後ろの書庫から綴りを一冊持ってくる。背に「業務点検委員会 回覧」。
ひより時間割は毎年、業務点検委員会に回覧してる。……ほら。これが去年
梶田委員の判子が、六つ
ひよりいちばん最後が委員長。杉浦さん
梶田その前の年も
ひよりその前も。二〇〇七年まで遡れる。全部、最後の欄に、同じ判子
梶田じゃあ、杉浦さんも毎年見てたんだ。見て、一コマで通してた
ひより見たかどうかは分からない。判子は、回ってきたって意味だから
梶田……顛末書に、これ書いていい? 毎年、委員会も回覧してました、って
ひより書いたら、委員会のせいにすることになる
梶田委員長のせい
ひよりそう
梶田……書かない。杉浦さん、三月で辞めるのに
ひより書かないなら、梶田くん一人になる
梶田知ってる
水曜の午後。顛末書が、業務点検委員会の回覧から戻ってくる。回したのは事務局のひより。梶田がカウンターに来る。
梶田見た?
ひより見た。確認者の欄
梶田「業務点検委員会委員長 杉浦」。判子つき。経緯のところにも一行、手書きで足してある。「当該時間割は、当委員会が毎年回覧により確認していた」
ひより頼んだの
梶田頼んでない。課長も知らなかった。さっき課長が、これは組織の問題として扱う、って。俺の顛末書、報告書に名前が変わった
ひよりよかったね
梶田よかったの?
ひより梶田くんは、よかった。……でも、確認者の欄は空いてたんだよね。確認した人がいないから
梶田うん
ひより確認してない人が、あとから自分の名前を入れた
梶田毎年、判子押してたじゃん
ひより毎年の回覧票の判子も、今週まとめて押したのかもしれない
梶田二十年分を?
ひより調べられる
木曜の昼休み。大学の坂を上がったところの印章店。店先に三文判の回転棚。奥に作業台があって、六十代の店主が一人。ひよりと梶田が入る。
梶田なんでこの店
ひより杉浦さんの印鑑ケースの裏に、店の名前が書いてあった
梶田見たの
ひより忘れ物は、中を確かめてから渡すの
トヨシマいらっしゃいませ
梶田認印を。シャチハタじゃないやつ
トヨシマお名字は
梶田梶田です。木へんの
トヨシマ、回転棚を回して、一本抜く。
トヨシマこちらです。千百円
梶田あった。……普通にあるんだ
トヨシマ梶田さんは、このあたりは多いので
ひより、携帯を出して、写真を二枚並べて見せる。
ひよりすみません、これ、同じ判子ですか。上が二〇〇九年の書類、下が今週の
トヨシマ拝見します
トヨシマ、携帯を受け取り、指で写真を大きくする。しばらく見る。
トヨシマ同じ字ですが、別の判です
ひよりなんで分かるんですか
トヨシマ下の「浦」のさんずいの、いちばん下の点が欠けています。上はまだ欠けていない。この押し方の判は、左下から減ります
ひよりじゃあ、上の書類を今週押した、ってことは
トヨシマこの二つは、同じ週には押せません
ひよりこの判子、いつ彫ったか分かりますか
トヨシマ帳面を見れば。でも、お客様のことですので
ひより……そうですね
ひより、携帯を返してもらう。梶田は三文判のキャップを開けて、中を覗いている。
梶田じゃあ、杉浦さん、ほんとに毎年押してたんだ
ひより毎年押して、毎年通してた。二十年
梶田知ってて?
ひより分からない。判子からは、それが分からない。だから作る
梶田何を
ひより回覧を、紙じゃなくする。誰が、いつ開いて、どこまで読んで、何分見てたか。全部残る
梶田怖。それ、杉浦さんに見せるの
ひより見せる。三月までに。判子が何も証明してなかった、って
梶田……俺のも残る?
ひより全員の
トヨシマ、試し紙を一枚、作業台に置く。
トヨシマよろしければ、試しに
梶田あ、はい
梶田、三文判を朱肉につけて押す。上下が逆。
トヨシマこのくぼみを、手前に
梶田すみません
梶田、もう一度押す。今度はまっすぐ。ひより、それを携帯で撮る。それから領収書を頼む。トヨシマ、手書きで書く。
ひより千百円なので、本当は紙はいらないんですけど
トヨシマうちは、紙しかないので
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。