ワタナベが風邪をひいて、今月のコメダはなくなった。杉浦恒夫(六十三)は土曜の午後、坂の上の印章店に来る。店主のトヨシマ(六十一)は三代目で、杉浦の判を三本彫った。店先の回転棚の前に、紺のジャージの高校生が一人、携帯で話しながら立っている。
杉浦、印鑑ケースから判を出して、作業台に置く。
杉浦朱肉が詰まってしまって
トヨシマお預かりします
トヨシマ、印面をブラシでこする。小さな手鏡に映して見る。
トヨシマ今週は、たくさん押されましたね
杉浦年度末なので。委員会の書面の回覧が、三つ重なりました
トヨシマ三つとも
杉浦委員長です。誰もやりたがらないので
トヨシマ委員長の判は、どこに押すんですか
杉浦いちばん最後です。全員の判がそろったのを見てから押す。そろえば、「開催しました」と書けます
トヨシマ集まらない会議ですか
杉浦十五年、集まっていません
回転棚の前の高校生の声が、店の中まで聞こえる。
高校生だから、保護者の欄。……竹内って押せばいいんでしょ。母さんの判子、出すの面倒だって言ったじゃん。……あった。竹内
高校生、一本抜いて、作業台に置く。
高校生これください
トヨシマ千百円です
高校生、小銭を数えて払う。キャップを開けて覗き、閉める。
高校生これ、どっちが上ですか
トヨシマこのくぼみを手前に
高校生ども
高校生、出ていく。杉浦は紺のジャージの背中を見ている。
杉浦竹内なら、誰の判でも竹内ですね
トヨシマはい。棚のものは
トヨシマ委員会のほかにも、何か
杉浦よその課の書類に、一つ押しました。確認者の欄に
トヨシマ頼まれて
杉浦頼まれてはいません
トヨシマ押していい欄でしたか
杉浦空いていました
トヨシマ、手鏡を置く。
杉浦若い人が、一人で書いた顛末書でした。二十年同じ時間割が、毎年、委員会に回ってきていた。私が毎年、最後に判を押していた
トヨシマご覧になっていたんですか
杉浦回ってきたものは、見てから押します
トヨシマそれで
杉浦気づいていたかどうかは、覚えていません。押したことは、覚えています
トヨシマそれで、確認者の欄に
杉浦判がそろっている書類は、全員が見たことになります。そろっていない書類は、最後の一人のことになる。あの書類は、一人分しかなかったので
トヨシマ、作業台の下から帳面を出して、めくる。
トヨシマ一本目は、二〇〇四年の四月でした
杉浦そうでしたか
トヨシマ覚えています。棚に三文判があるのに、認印を彫りで、と言われた。認印を彫りで頼む方は、あのころ珍しかった
杉浦棚の判は、同じ名字なら誰でも押せるので
トヨシマはい
杉浦私の判は、私しか押せないものにしたかった
トヨシマ二本目と一本目は、まだお手元に
杉浦家にあります
トヨシマ印章の供養は、毎年十月です
杉浦十月には、もう辞めています
トヨシマ辞めた方からも、受けます
トヨシマ、掃除の済んだ判を杉浦に返す。試し紙を一枚出す。
トヨシマあと、どのくらい押されますか
杉浦三月の終わりまで、出勤が五十日あります。一日に四十として
トヨシマ二千回
杉浦もちますか
トヨシマもちます。左下は、もうあまり残っていませんが
杉浦、試し紙に判を置き、左下に体重をかけ、それから全体を押す。トヨシマ、印影を手鏡なしで見る。
トヨシマこの試し紙、いただいてもいいですか
杉浦どうぞ。何に
トヨシマ帳面に挟んでおきます。日付を書いて
トヨシマ、鉛筆で日付を書く。杉浦は掃除の代金を聞くが、トヨシマは首を振る。杉浦、朱肉の補充液を一本買って、千円札を出す。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。