大学の事務棟二階、研究支援課。四月に入った波多野ひより(二十三)は、外部資金係で立替払いの精算を受けている。カウンターの奥の席に、来年の三月で終わる杉浦がいる。学務課の同期・梶田が、穴あけパンチを借りに来る。
梶田、カウンターに肘をつく。ひより、画面を梶田のほうへ回す。
梶田パンチ、二穴のやつ
ひよりそこ。それより、見て
梶田なに
ひより先生たちが領収書のPDFをこのフォルダに置くでしょ。そしたら勝手に読んで、日付と金額と店の名前を表に入れて、カードの明細と突き合わせるの
梶田勝手に
ひより勝手に。九月分、二百十二枚で、合わなかったのが四枚
梶田九十八パーセント
ひより残りの四枚も、二枚はキャンセルで、二枚は先生がドルで払ってた
梶田じゃあ、百じゃん
ひより百。人間がやると、ここ、三日かかってた
梶田すごいね。……で、それ、誰に見せたの
ひより梶田くん
梶田俺だけ
ひより課長には来週。その前に杉浦さん
間。ひより、奥の席を見る。杉浦は老眼鏡を鼻の先までずらして、紙の束を一枚ずつめくっている。
梶田杉浦さん、なんて
ひよりまだ言ってない
梶田言う前から顔が負けてる
ひより負けてない
ひより、立ち上がって奥の席へ。梶田はカウンターに残り、聞こえるところでパンチを探すふりをする。
ひより杉浦さん、ちょっといいですか
杉浦はい
ひより一万円以上の領収書なんですけど。原本を紙で出してもらって、押印して綴じる、っていうの
杉浦はい
ひより電子で全部突き合わせられるようになったので、紙のほう、なくせないかなと思って
杉浦見せてもらえますか
ひより、タブレットを渡す。杉浦は老眼鏡を上げ、しばらく黙って指で表を下へ送る。赤い四行のところで止まる。
杉浦これは、きれいですね
ひよりありがとうございます
杉浦ドルのは、よく見つけましたね。私は毎年、一枚は見落とす
ひよりじゃあ
杉浦紙で、お願いします
ひより……理由を、聞いてもいいですか
杉浦規程にあるので
ひより規程は、変えられますよね
杉浦変えられます
杉浦、タブレットを返す。机の上の朱肉の蓋を開け、束のいちばん上の一枚に判を押す。押したあと、判を紙から離すまでに、少しだけ時間がかかる。
杉浦これ、今日の分。綴じておいてもらえますか
ひより……はい
ひより、束を受け取ってカウンターへ戻る。梶田がパンチを差し出す。
梶田二穴、あった
ひより知ってた
梶田負けてたね
ひより負けてない。「変えられます」って言った
梶田「紙で」とも言った
ひより……判子、見て。ここ
梶田ん
ひより左下だけ、いつも濃いの。全部そう
梶田押し方の癖でしょ
ひより押す前に一回、ぐって左下に体重かけるの。毎回。なんか、儀式みたい
梶田儀式だよ。判子は
カウンターに、布の手提げを提げた教員が来る。五十代。ひよりが胸の中で「四階の先生」と呼んでいる人。
先生すみません、まだ間に合いますか
ひよりはい、五時までなら
先生論文を三本、買ったんです。一本ずつ。クリックして、カードの番号を入れて、領収書のPDFが来て
ひよりフォルダに入ってました。三本とも合ってます
先生あ、もう。早いな
ひよりただ、こっちのデータのほう。一万二千八百円の
先生ああ
ひより一万円を超えるので、紙の原本を
先生原本。……画面の上で買ったものの原本って、どこにあるんでしょう
ひより印刷していただいて、ここに先生の署名を
先生印刷した瞬間に、原本になるんだ
梶田、小さく吹き出す。先生も笑う。ひよりは笑わない。
ひよりすみません
先生いや、あなたが謝ることじゃない。……実はね、論文のほうは、もう買うのをやめようかと思ってて
ひよりえ
先生だいたい同じものが、プレプリントで手に入るんです。正式版の前に、著者が自分で公開しておくやつ。引用もそっちでいいかなって
梶田いいんですか、それ
先生分野によるけど、うちのあたりは、まあ。共同研究先の先生は怒るだろうなあ。顔が三人くらい浮かぶ
ひより怒られても、やるんですか
先生クリックして、カードを出して、PDFを保存して、印刷して、署名して、ここまで降りてくる。そのあいだに、別の誰かが一本書いてる。競争なんですよ。やれることは全部やらないと
ひより……私、それ、全部いらなくできます。降りてくるところまで
先生うん、見ました。フォルダに置いたら、次の朝にはもう表に入ってた。あれ、あなたが?
ひよりはい
先生ありがとう。あれは本当に助かる。あれこそ、機械に奪われたい仕事だった
先生、手提げの口を開けて財布を探す。手提げの底で、銀色の缶が一本、横になっている。ひよりの目が止まる。
ひより……それ
先生あ。ノンアルコールです。帰りに買って
梶田机に置いたら、まずいですかね、それ
先生どう思います
梶田俺はまずいと思います。中身じゃなくて、ラベルが。誰かが写真を撮って、どこかに上げて、「職場で飲酒か」ってなったら
ひより飲酒じゃないじゃん
梶田説明する前に、もう広がってるんだって
先生評判ってね、守ろうとすると、守る係が要るんですよ。その係を置く余裕は、どこにもない。だから、先に縮こまる
ひよりじゃあ、置かないんですか
先生置かない。……置かないけど、なんで置かないのかは、自分でもよく分からない。理由を突き詰めると、何もないんです。何もないのに、「許されない」だけが残る
先生、署名用の紙を受け取り、手提げを肩にかけ直す。
先生明日、印刷して持ってきます。紙で
ひよりすみません
先生だから、あなたが謝ることじゃないって
先生が出ていく。窓の外が少し暗くなる。梶田はパンチを返さず、カウンターにもたれたまま。
梶田うちもさ、今週、LINEのIDの件でもめてて
ひよりID
梶田ゼミの先生が、学生にLINEのIDを聞いて名簿に書いてたの。卒業してからの連絡用に。それが「大学の連絡手段があるのに、私的なIDを集める合理性はあるのか」って
ひより正論じゃん
梶田正論。誰も反論しない。で、記録には「IDの収集はとんでもない」って残る
ひより残っていいでしょ
梶田いいんだけど。OB会やるとき、誰にも連絡がつかなくなる。それはみんな思ってる。言わないだけ
ひより表と裏があるってこと
梶田ある。規程の上ではこう、実際はこう、っていうのが多すぎて、新人は、どっちに従えばいいのか分からない。で、ある日、誰かが裏のほうで捕まる
ひより捕まる
梶田実習の授業が、本当は二コマ続けなきゃいけないのに、昔から一コマで回してた、とかさ。誰かがちゃんと調べて、「これは単位の認定に関わる」って言い出したら、昔に遡って、最後にそれを担当してた人が
ひよりいけにえ
梶田いけにえ、って言うとあれだけど
ひより全部、儀式だよね。コンプラの研修も、決まった動画を見て、決まったアンケートを出して、回収率九割で「開催しました」って
梶田開催しないと、予算が減るから
ひより知ってる。だから儀式なの。意味は、もうないの
梶田意味がないのと、やめる係がいないのは、別の話だよ
ひより……じゃあ、私がやめる係になる
梶田杉浦さんの前でそれ言える?
ひより三月までは言わない
梶田三月で終わりなんだっけ、杉浦さん
ひよりうん。そしたら、紙もなくなるでしょ
梶田なくならないよ。規程は人じゃないから
ひより……規程を書いたのは、人でしょ
奥の席で、杉浦が朱肉の蓋を閉める音。二人とも振り返らない。
午後六時過ぎ。大学の坂を下りたところにある調剤薬局。ひよりは頭痛薬を一箱、カウンターに置く。受付には四十代の女性。首から提げたままのひよりの職員証に、一瞬、目がいく。
受付八百八十円です
ひよりカードで
受付はい。……領収書は
ひよりいらないです
受付レシートだけで大丈夫ですか
ひより大丈夫です。紙、どうせ捨てるので
受付研究支援課、ですか
ひよりえ
受付それ。札
ひよりあ、はい。四月から
受付……あそこ、まだ一万円からは、紙ですか
間。ひより、カードを財布に戻す手を止める。
ひよりなんで知ってるんですか
受付前に、ちょっとね
ひより大学に、いらしたんですか
受付ずっと前。……八百八十円なら、紙はいりませんね
ひよりでも、あれ、意味ないんですよ。全部、電子で突き合わせられるのに
受付そう
ひより判子を押す人が、紙で、って言うから
受付判子、まだ押してるんだ
ひよりえ?
受付なんでもない。お大事に
受付の女性、レシートを渡す。それから少し迷って、領収書の用紙を一枚、レシートに重ねる。
受付一応、紙で
ひより……いらないって
受付捨ててもいいから
自動ドアが開く。ひより、外に出る。坂の上で、事務棟の二階の窓に、明かりがひとつだけ残っている。ひよりは二枚の紙を捨てずに、財布のいちばん奥に入れる。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。