ホリグチサヤ(44歳・道の駅直売所スタッフ15年)
雪が里を白く染めた朝は、搬入口の様子が変わる。いつもなら六時のシャッターと同時に三台四台と続けて入ってくる軽トラが、雪の日は二台か、三台しか来ない。坂の上の畑から下りてこられない人がいる。道に出ること自体をあきらめる人がいる。だから棚に、空きが目立つ。
それでも来る軽トラは、いつも決まっている。タイヤチェーンの、あの硬い音が遠くから聞こえると、私は誰の車か分かる。雪の坂をチェーンで下りてくるのは、毎年同じ顔ぶれだ。その人たちは、雪の日に並ぶ野菜には、雪の日の価値があることを知っているのだと思う。来られなかった人の分まで、棚を埋めようとするわけではない。ただ、自分の畑のものを、いつもどおり持ってくる。
客も減る。これははっきりしている。うちの道の駅は、二つの層の客で回っている。地元の、毎週来る人たち。それと、国道を流していて立ち寄る通りすがりの人たち。雪の日は、後者が消える。国道のスピードが落ちて、誰も寄り道をしなくなる。残るのは、地元の客だけだ。長靴で、雪を踏んで、必要な物だけを買いに来る人たち。
地元の客の買い方は、晴れた日とは違う。かごに山ほど入れたりしない。今日の鍋に要る白菜一個、長ねぎ一束。それだけをまっすぐ取って、レジに来る。雪の日に余分を買って帰っても、また出てくるのが億劫だからだろう。あるものしか並んでいない棚から、要る物だけを、迷わず抜いていく。
空いた棚を、どうするか。これが雪の日の、私の仕事だ。隣の生産者の品を、空いた段まで広げて並べることはできる。見た目は寂しくなくなる。けれど私は、あまり広げないことにしている。来られなかった人の棚を、来た人の野菜で埋めてしまうと、誰が今日来て、誰が来なかったかが、棚から見えなくなる。空きは空きのまま残しておく。その人の場所だから。
雪の日の品揃えには、嘘がない。あるものしか、ない。晴れた日なら十種類並ぶ葉物が、三種類しかない。けれどその三種類は、雪の坂を下りてきた人の、確かなものだ。なんだか、清々しいとさえ思う。たくさんあることが豊かさだと、いつのまにか思い込んでいた自分に、雪の日の棚が気づかせてくれるのかもしれない。
ストーブは、レジの斜め後ろに置いてある。雪の日は、買い物を終えた地元の客が、少しだけそこで手をかざしていく。天気の話をして、坂の様子を教え合って、それから帰る。誰の家の前がいちばん凍るか、どの坂がもう通れないか。レジを打ちながら、私はその情報を聞いている。次に来る軽トラが今日は無理かどうかが、客の話から分かることもある。
雪が強くなると、閉店を早める判断をする。これは私が決めていい。けれど決めたら、すぐに電話をかける。まだ引き取りに来ていない生産者へ、順番に。早く仕舞うので、残った分は早めに取りに来てください、と。電話の順番は、棚に品が残っている人から。残りの少ない人は、後回しでいい。受話器を握りながら、私は今日の棚を、もう一度頭の中で数えている。
結局のところ、雪の日の棚は、里の正直さなのだ。来られる人だけが来て、あるものだけが並び、要る人だけが買っていく。飾りも、水増しもない。十五年、私はその正直な棚を、雪のたびに眺めてきたのだろう。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。