「姪の宿題を見る独身の伯母」の背後には、進化生物学の概念がある。自分の遺伝子を残すために、必ずしも自分の子を持つ必要はない——血縁のある他者を助けることでも、遺伝子は次世代に伝わる。それを包括適応度(inclusive fitness)と呼ぶ。
1964年、生物学者ウィリアム・ハミルトンが提示した理論。個体の進化的成功は、自分が残す子の数だけでなく、血縁者が残す子の数も加味して計算される。兄弟姉妹の子(甥・姪)には、自分の子の半分の遺伝的近縁性がある。つまり、姪を助けることは、自分の子を「半分」産むに等しい遺伝的効果を持つ。
この理論は、利他行動の進化を説明する。蜂や蟻のワーカーが自分は子を産まずに女王の子育てを手伝うのも、姉妹(女王の娘)との近縁度が高いためである。進化はしばしば、個体ではなく、遺伝子の視点で語られる。
本作で、リンメイファが姉の家に通い続け、姪の宿題を見るのは、文化的な「叔母らしさ」だけでなく、進化的にも合理的な行動である。リンの遺伝子は、姪を介して次世代に伝わる可能性を持つ。リンが直接子を持たなくても、姪の生存・成功を助けることで、リンの遺伝子は受け継がれる。
もちろん、リンの行動は意識的にこの計算をしているわけではない。「姪の呼吸の音が好き」「自分の母と過ごした記憶に重なる」という感覚は、進化的合理性が情緒として現れたものとも読める。情緒の方が先で、計算は後付けの説明である。
包括適応度の理論は、社会の様々な場面で観察される利他行動を説明する:
もちろん、これは「血縁でないと愛せない」を意味しない。養親の愛も同じ深さを持ちうる。ただ、進化が用意した情緒の傾向として、血縁への投資が起きやすいという観察的事実がある。祖母に「あなたも早く」と言われ続けるリンが、姪に投じる時間は、その意味で十分に「家族を持つこと」の一部である。
シリーズ「裏の糸」は、専門家には当たり前の概念を、暮らしの言葉で語り直す試み。本作はそれらに続く一本である。シリーズ全作(28本)のリストは カテゴリM から。