「信頼が戻るまでの遅延」の背後には、物理学・工学の概念がある。信頼を失うのは一日、戻すのは三年——という非対称性は、磁性体の磁化曲線が示す現象と同じ構造を持つ。それをヒステリシス(履歴依存)と呼ぶ。
ヒステリシスは、システムの現在の状態が、現在の入力だけでなく過去の経路に依存する現象である。磁性体に磁場をかけて磁化させ、磁場をゼロに戻しても、磁化はゼロに戻らない——残留磁化が残る。ゴムを伸ばして戻す時、戻りの曲線は伸ばした時の曲線と一致しない。ヒステリシスは、状態変化の方向によって応答が違うことを意味する。
経済学にも応用される。失業率は不況で急激に上昇し、好況になっても緩やかにしか下がらない(労働市場のヒステリシス)。為替も、金融市場も、人の心理も、同じ性質を持つ。
本作で観察されるのは、信頼の積み上げと崩壊のあいだの極端な非対称性である。サイトウの部下が一度ミスをした時、信頼は一日で大きく失われた。三ヶ月、半年と経って部下が改善しても、サイトウの中の信頼曲線は元の位置に戻らない。頭では「もう大丈夫」と分かっていても、依頼するときに小さな躊躇が残る。
これは情緒的な弱さではなく、リスク管理の合理的な側面でもある。失敗の記憶は警告として機能する。ただし、回復に必要な時間が長すぎると、相手の現在の能力を正当に評価できなくなる。
ヒステリシスを完全になくすことはできない。ただし、それが存在することを認識すれば、補正は可能である。
サイトウが「新人の頃の自分」を思い出した瞬間、彼女は自分の信頼曲線を意識し始めた。それが、ヒステリシスから少しずつ抜け出す最初の一歩である。
シリーズ「裏の糸」は、専門家には当たり前の概念を、暮らしの言葉で語り直す試み。本作はそれらに続く一本である。シリーズ全作(28本)のリストは カテゴリM から。