枯らしました、と言いに来る客
店を継いで一年目、観察者になった日

イグチタモツ(62歳・園芸店主35年)

朝、店先の鉢を表に出すと、葉の上で朝露が光っていた。父から店を継いだのは一九九一年、二十七歳の春のことだ。この商売の妙なところは、売ったあとにもう一度、客が戻ってくるところにある。それも、いいことの報告ではない場合が多い。

その日、初老の女性がレジまで来て、紙袋から鉢をひとつ出した。ポトスだった。葉のほとんどが黄色く変わって、つるの先がぐったりと垂れていた。受け皿には白い水垢の輪が幾重にも残っていた。彼女は鉢を私のほうに少し押し出すようにして、こう言った。「枯らしちゃって、ごめんなさい」。

私は一瞬、誰に謝っているのだろうと思った。店の私にか。それとも、手のなかで黄色くなっていったポトスにか。植木屋というのは、商品が死んだことを買った客のほうから謝りに来てもらえる、たぶん唯一の小売業だ。豆腐屋に客が豆腐を腐らせてごめんと言いに来ることはない。けれど植物には、それが起きる。

父なら気の利いた言葉を返したのかもしれない。私はまだ二代目になりたてで、何と言えばいいのか分からず、鉢を受け取って葉を一枚めくった。根元の土を指で押すと、ぐじゅ、と湿っていた。水のやりすぎだ、とすぐに分かった。けれど私はそれを言わずに、「また育ててみますか」とだけ訊いた。彼女はうなずいて、棚から新しいポトスをひとつ選んで帰っていった。

それから三十五年、私は枯らした報告に来る客を、ずっと見てきた。気づいたことがいくつかある。まず、報告に来る人は、必ずと言っていいほど次の鉢を買う。謝りに来るというのは、もう一度やりたいということなのだ。本当に園芸をやめた人は、店には来ない。だまって去る。

もうひとつ。枯らす原因の圧倒的多数は、水のやりすぎだ。これはたぶん、多くの人の予想と逆だろう。水が足りなくて枯らす人より、かまいすぎて根を腐らせる人のほうがずっと多い。愛情の方向が、間違っているのかもしれない。植物は、見られたいのであって、触られたいのではない。受け皿に溜まった水は、優しさの溜まったあとのようにも見える。

「枯らしにくい植物をください」という注文も、よく受ける。サンスベリア、ポトス、ガジュマル。レジ横には「強健」と札を立てたコーナーを作ってある。この注文は、たいてい前科の告白だ。私はうなずいて、強いやつを見つくろう。育て方のラベルには「乾いたらたっぷり」と書いてあるのだが、その「乾いたら」が伝わらない。だから私は、赤玉土と腐葉土の配合の話よりも先に、「指を土に突っ込んで、湿ってたら水やらないで」と言うことにしている。

あの日のポトスを、私はしばらく店の奥に置いていた。新しい葉が一枚、また一枚と出て、結局それは枯れなかった。枯らしたと謝りに来た鉢が、謝られた場所で生き返ることもある。妙な商売だと、いまでも思う。

振り返れば、あの「ごめんなさい」を聞いた日から、私は何かを売る人間ではなく、売ったあとを見届ける人間になったのだと思う。客は植物を枯らし、謝り、また買っていく。その繰り返しを、私はレジの向こうから三十五年見つめてきた。謝りに来る客が、私をいまの私にしてくれたのだ。今日も店先で、鉢の葉が朝の光に静かに光っている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。