イグチタモツ(62歳・園芸店主35年)
十二月になると、店先がいっせいに赤くなる。トラックの荷台から下ろされる箱の中で、ポインセチアは身を寄せ合って揺れている。その赤を見るたび、私の胸には小さな痛みがよぎる。この赤の多くは、年が明ければ捨てられる赤だからだ。
毎年、入荷の箱数を決めるのが私の仕事だ。多すぎれば売れ残り、少なすぎれば二十四日の夕方に棚が空く。三十五年、私はこの店の前を通る人の数と、去年の売れ方と、その年の冷え込みを頭の中で掛け合わせて、箱の数を決めてきた。今年は四十箱にした。一箱に六鉢。二百四十の赤が、十二月の三週間で出ていく。
客はよく、あの赤い花がきれいだと言う。けれど、あれは花ではない。苞(ほう)という、葉が色を変えたものだ。本当の花は、中心にある黄色い粒のような部分で、あれは地味で小さい。秋の夜が長くなり、一日のうち暗い時間が一定を超えると、葉は赤くなる。短日処理という。農家は黒い布をかけて夜を作り、十二月に間に合うように赤を仕込む。客が花だと思って買う赤は、人の作った長い夜の産物なのだ。
ラッピングの紙も赤を選ぶ客が多い。赤い苞を赤い紙で包む。レジの脇に金や緑のリボンも置いてあるが、出るのはたいてい赤だ。包んでいるあいだ、客は鉢のことではなく、誰の家に持っていくかを話している。義理の母に、職場に、玄関に。ポインセチアは、植物というより、季節の合図として手から手へ渡っていく。
ときどき、正直な客がいる。「これ、クリスマスが終わったら捨てていいんですか」。レジの前で、申し訳なさそうに、けれどまっすぐに訊いてくる。私はその問いが嫌いではない。嘘の優しさより、よほど信用できる。多くの客は訊かずに買い、訊かずに捨てる。訊いてくる人は、捨てることに少しだけ引っかかりを覚えている人だ。
じつはポインセチアは多年草で、夏を越せば翌年もまた赤くなる。レジの引き出しには、その夏越しの方法を印刷した紙を用意してある。五月に切り戻すこと、夏は半日陰に置くこと、秋からは夜に光を当てないこと。だが私は、それを誰彼かまわず渡すわけではない。客の聞き方で決めるのだ。「枯れたらどうすれば」と訊く人には渡す。「かわいいでしょう」とだけ言って包んでいく人には、渡さない。植物を飾りとして買いに来た人に、育て方を押しつけるのは、こちらの節度に欠ける気がするからだ。
年が明けると、棚に残った赤は値引きの札がつく。半額、三割、最後は捨て値。一月の半ばには、店先から赤がきれいに消える。買われていったものも、たいていは同じころに家のごみと一緒に出される。十二月だけ主役で、一月には消えている。ポインセチアは、そういう植物の代表のような顔をして、毎年やってくる。
店の奥に、私が夏越しさせている見本の鉢がある。去年の暮れに売れ残った一鉢だ。二年目のそれは、買ったときの倍ほどに背が伸びて、苞も大ぶりに赤くなった。客が「捨てていいんですか」と訊いてきたとき、私はときどきこの鉢を指さす。捨てなくてもいい、と言うためではない。捨ててもいいけれど、捨てなくてもいいのだ、と見せるために。
赤い苞を赤い紙で包みながら、私は思う。売り手の節度こそ、私の育て方なのだ。何を渡し、何を渡さないか。それを客の聞き方から読み取ることが、三十五年でいちばん身についた技術なのだろう。今日も店先で、二百四十の赤が、十二月の光に静かに色づいている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。