イイクラソウ(31歳・きのこ農家9年)
うちのシイタケは、二つの出口を持っている。一つは農協で、規格箱に詰めて出せば、その先は知らない。だれが食べたかも、うまかったかも、何も返ってこない。もう一つが、町の直売所だ。朝採りを自分で並べ、自分で値をつける。同じシイタケが、出口によって別の生きものになる。
農協出荷は、楽ではないが、迷わない。等級の基準が決まっていて、傘の開き、軸の長さ、傷の有無で、機械的に箱が決まる。決まった値段で引き取ってもらえる。直売所は逆だ。並べるのも値をつけるのも全部こちらの判断で、その自由が、毎朝けっこう重い。
朝、収穫を終えた箱を軽トラに積んで、開店前の直売所に着く。棚はもう、近所の生産者の野菜で半分埋まっている。トマト、葉物、卵。場所は早い者勝ちで、目の高さの一段がいちばん売れる。下段に置くと、それだけで一日の動きが鈍い。僕はいつも、隣のトマト農家の佐藤さんより少し早く来て、目の高さを確保しようとする。生産者の顔が見える直売所には、スーパーにはない温かさがある。
値付けが、いちばん悩む。スーパーの棚では、シイタケは一パック百三十円だ。あれより安くすれば、まず手に取られる。でも朝採りの鮮度を考えれば、もう少し強気でもいい気がする。マジックを持ったまま、値札の前で何分も止まることがある。安くして数を出すか、鮮度で押すか。正解は、たぶんない。
袋詰めにも、見せ方がある。傘を上に向けて、開きすぎていないものを表に。大きさを揃えて入れると、それだけで高く見える。けれど客は二種類いて、大きいのが好きな人と、小ぶりが好きな人がいる。煮物に使う人は大きいのを、汁物の人は小さいのを取っていく。だから僕は、大袋と小袋を両方作る。どちらの好みにも応えたい、と思う。
去年から、袋に顔写真のシールを貼っている。「飯倉さんのシイタケ」と名前が入っている。最初は気恥ずかしかった。でも貼ってから、距離が変わった。レジで「飯倉さんのね」と指名されることがある。名前と顔が出ているというのは、それだけで責任が芽生えるのかもしれない。
そして、声が返ってくる。これが農協では絶対に起きない。先週買った人が、また棚の前で僕を見つけて言う。「先週のは肉厚だった」。たった一言だ。でも農協の箱の向こうからは、一生聞こえない一言だ。うまかった、まただ、と言われると、次の朝の包丁の角度が、少し変わる。
夕方、引き取りに戻る。売り切れている日と、半分残っている日がある。その差を、僕はまだうまく読めない。雨の日は人が少ない。給料日の前後で動く。隣の棚に同じきのこが安く出た日は、てきめんに残る。残った袋を箱に戻しながら、明日はどう並べようと考える。試行錯誤の連続だ。
農協は、楽だ。直売所は、しんどい。それでも僕が朝早く棚を取りにいくのは、あの「肉厚だった」の一言があるからだ。顔の見える場所で、名前を呼ばれて、感想が直接届く。その声が、僕を育てるのだ。今日も僕は、目の高さの一段に、自分の名前を貼った袋を並べる。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。