核は強い。「数字の前に部屋の匂いが変わる。雑菌は鼻が先に見つける」という父の言葉、青カビの点を見つけて隔離室へ運ぶ素早さ、そして包丁を石づきに当てる角度。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、「森の恵み」「命の匂い」といった既製の叙情で隙間を埋め、最終段で全部を解説して自分に賞状を渡してしまっていることだ。とりわけ致命的なのは、培養室は工場だと自分で書いておきながら、肝心の匂いの場面で詩人の語彙に逃げていること。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「あの春の朝、父がくれた言葉が、僕を観察する人間に変えてくれた。匂いが、いまの僕をつくったのだと思う。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「匂いが、いまの僕をつくった」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、イイクラソウである必然がない。続く「白いブロックたちが静かに息をしている」も、菌床を擬人化して余韻を偽装しているだけ。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めてしまっています。
「森の恵みと人は言うけれど、僕の仕事場には木の一本も生えていない。」/「あの瞬間の部屋の匂いは、(中略)もっと青い、生きものの匂いがする。命というのは、こういう匂いなのかもしれない。」
前者は皮肉として置いたつもりでも、「森の恵み」という常套句を自分から呼び込んでいる時点で、その語彙圏に引きずられています。そして後者で「命の匂い」と詠ってしまう。菌床栽培は殺菌釜と種菌と数値管理の世界で、その手触りこそがこの書き手の固有性なのに、いちばん書ける場面で生成された“それっぽい”抒情に逃げた。「もっと青い」も、何の青さか書いていないので雰囲気語です。
「命というのは、こういう匂いなのかもしれない。」「父の包丁に近づくのに、何年もかかったように思う。」
菌の機嫌を匂いで断定して動く人間が、自分の回想を「〜かもしれない」「〜ように思う」で薄めるのは不自然です。青カビを「青カビだった」と言い切る鼻を持つ語り手なら、自分が変わるのに何年かかったかは、季節か収穫量か、具体的な物差しで覚えているはず。留保語尾は怯えではなく、断言を避ける作者の保険に見えます。
「健全な菌糸は、ほのかに甘い、土と木の中間のような匂いがする。けれど青カビが入ると、その甘さに、つんとした、消毒液に似た異臭が混じる。」
この比喩は悪くないが、「土と木の中間」「消毒液に似た」はどちらも借り物の近似値です。九年その匂いの中にいる人間なら、健全な菌床の匂いを別の何か(炊いた米か、雨上がりの落ち葉か、栗の渋皮か)で名指せるはず。青カビの異臭も「消毒液」ではなく、もっと自分の生活圏の具体物に当たるはずです。比喩が一般人の鼻に合わせて丸められているので、観察ではなく説明に見えます。
「ノズルから細かい霧を吹くと、まだ豆粒ほどのきのこたちが、一斉に湿気を吸う。」
「きのこたちが一斉に湿気を吸う」は観察ではなく擬人化です。実際の発生室で散水を握る手が見ているのは、傘の濡れ方のムラ、水が溜まりやすい棚の段、ノズルを止める一瞬の判断のはず。同様に、青カビの隔離も「素早さだけが、唯一の薬だった」と要約で済ませている。手袋を二重にするのか、隔離室の扉をどう閉めるのか、胞子を飛ばさない動作の具体が抜けています。手順の論理が書けていないので、緊張が伝わりません。
「あの値段と、一個の菌床が数か月かけて育つ手間とのあいだには、僕には埋められないほどの距離がある。」
スーパーの百数十円と数か月の手間の対比は、いい素材です。けれど「埋められないほどの距離がある」と作者が結論まで言ってしまうと、読者の引き算する余地が消える。値段と工程を並べて置けば、距離は読者が自分で測ります。抽象語で距離を名指すたびに、せっかく置いた百数十円という数字の手応えが下がっていく。
「父は無口な人で、教えるというより、黙って隣に立たせる人だった。」
この一文は、寿司職人の回想にも、宮大工の回想にも、そのまま置ける既製品です。無口な師匠というキャラクターを記号で召喚しているだけ。父の固有性を出すなら、立たせ方の具体(どの棚の前に立たせたか、何分黙っていたか、最初に触らせた道具は何か)が要る。記号の父からは、匂いを嗅ぐ背中は立ち上がってきません。
残すべきは三つ。数字より先に匂いが変わるという父の教え、青カビの点を見つけて隔離するくだり、そして包丁を石づきに入れる角度で等級が決まること。削るべきは、「森の恵み」「命の匂い」の借り物抒情、留保語尾、最終段の主題解説と菌床の擬人化。改稿では、健全な菌床と青カビの匂いを自分の生活圏の具体物で名指し、隔離は素早さと要約せずに動作で書き、結びは「育てた字」ならぬ「捨てた菌床」と「残した手間」を物として置いてください。意味は動作と物が運ぶ。説明が運ぶのではない。