菌床の、匂い
継いだ年、鼻が目より先になるまで

イイクラソウ(31歳・きのこ農家9年)

培養室は、いつも暗い。光を嫌う菌のために、窓のない部屋を二十度前後に保ち、湿度計と温度計の数字だけが、壁の上で静かに光っている。シイタケの菌床栽培を始めて九年になる。おが粉と米ぬかを固めたブロックに種菌を植え、菌糸を回し、刺激を与えて、きのこを出す。森の恵みと人は言うけれど、僕の仕事場には木の一本も生えていない。

菌床というのは、要するに四角いブロックだ。おが粉に栄養体を混ぜて袋に詰め、殺菌して、種菌を植える。うまくいけば、白い菌糸がブロック全体に回って、表面が真っ白になる。その白を見ると、ああ元気だ、と安心する。培養室の棚には、その白いブロックが何百個と並んでいる。暗がりの中で、それだけが仄かに明るく見える。

父から農家を継いだのは、二〇一七年の春だった。僕は二十二歳で、大学を出てすぐ、迷うこともなく実家に戻った。父は無口な人で、教えるというより、黙って隣に立たせる人だった。培養室に入るたび、父はまず深く息を吸った。数字を見る前に、いつも鼻を動かしていた。

その春のある朝、父が言った。「数字を見ろ。でも数字の前に、部屋の匂いが変わる。雑菌は、鼻が先に見つける」。健全な菌糸は、ほのかに甘い、土と木の中間のような匂いがする。けれど青カビが入ると、その甘さに、つんとした、消毒液に似た異臭が混じる。数字には、まだ何も出ていない。温度も湿度も正常のまま。それでも鼻が、先に異変を知らせる。

父の言葉どおり、ある日、培養室に入った瞬間、僕は足を止めた。いつもの甘さの底に、何か硬いものが混じっている気がした。棚を一段ずつ確かめていくと、奥のブロックの一つに、薄い青緑の点が浮いていた。青カビだった。僕は手袋をはめ、そのブロックだけをそっと袋で包み、隔離室へ運んだ。一個の油断が、部屋を全滅させる。父はそう言っていた。素早さだけが、唯一の薬だった。

菌糸が回りきったブロックは、発生室へ移す。発生室は明るい。光と温度差と散水が刺激になって、ブロックの表面から、ぽつ、ぽつと、芽が出る。ノズルから細かい霧を吹くと、まだ豆粒ほどのきのこたちが、一斉に湿気を吸う。あの瞬間の部屋の匂いは、培養室の甘さとは違う、もっと青い、生きものの匂いがする。命というのは、こういう匂いなのかもしれない。

収穫は朝だ。傘が開ききる前の、内側にまだ膜を残したものがいい。包丁を石づきに当て、どの角度で切るかで、等級が変わる。深く切れば軸が長く残って見栄えはいいが、その分ブロックが傷む。浅すぎれば軸が残って商品にならない。父の包丁は、いつも同じ角度で、同じ深さに入った。僕の包丁が父のそれに近づくのに、何年もかかったように思う。

規格から外れたものは、捨てない。形の崩れたものは乾燥機にかけて干しシイタケにし、傘の小さなものは直売所の袋に詰める。スーパーの棚で、シイタケは一パック百数十円で売られている。あの値段と、一個の菌床が数か月かけて育つ手間とのあいだには、僕には埋められないほどの距離がある。それでも、直売所の袋に名前を書くとき、僕は少しだけ誇らしい。

九年がたった。いまでは僕も、培養室に入るとまず息を吸う。父と同じように。数字はもちろん見る。けれど数字の前に、鼻が動く。あの春の朝、父がくれた言葉が、僕を観察する人間に変えてくれた。匂いが、いまの僕をつくったのだと思う。今日も培養室の暗がりで、白いブロックたちが静かに息をしている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。