イイクラソウ(31歳・きのこ農家9年)
きのこ農家というと、山や木を思い浮かべる人が多い。けれど僕の仕事場は、空調と加湿器とポンプで動く部屋だ。培養室は二十度、発生室は十六度。その数字を保っているのは、自然ではなく電気だ。だから台風が来ると、僕がいちばん見るのは空ではなく、ブレーカーのほうになる。
その夜、自然の猛威の前に、人間はあまりにも無力だった。風が雨戸を叩き、午後九時すぎ、部屋の明かりがふっと消えた。空調のうなりが止まり、加湿器の霧の音が止まり、培養室がしんと静かになった。電気で動いていたものが全部黙ると、部屋はこんなに静かなのか、と思った。
発電機は一台しかない。培養室も発生室も、全部いっぺんには回せない。燃料の量を考えても、朝まで全室を支えるのは無理だ。だから順番を決める。培養中の菌床は、菌糸がまだ回りきっていない。温度が上がれば雑菌が先に動く。発生中の菌床は、もう芽が出ている。乾けば傘が割れる。どちらも守りたいが、片方しか選べない。僕は培養室に発電機をつないだ。回りかけの菌糸を、雑菌に渡すわけにはいかない。
発生室は、電気を切ったまま放っておくしかない。扉を閉め、隙間にタオルを詰める。外気は雨で湿っているから、湿度はしばらく保つ。問題は温度だ。締め切った部屋は、菌床自身の呼吸熱でじわじわ上がっていく。一時間でどれくらい上がるか。頭の中で、過去の真夏の数字を引っぱり出して、カーブを描く。たぶん一時間に一度くらいだ。四時間で四度。それなら、ぎりぎり耐える。
見回りに行くたび、扉の前で迷う。開ければ中の様子は分かる。けれど開けた瞬間、せっかくこもった温度が逃げる。見たい、でも開けたくない。懐中電灯を片手に、扉の前で何度も立ち止まった。結局、温度計だけ廊下側のガラス越しに読んで、扉は開けないと決めた。見ないことが、いちばんの世話になる夜もある。
夜中、同業の田中さんから電話が来た。「そっちは何時間止まった」。声が、少し笑っていた。「うちは発電機が古くて、燃料がもたん」。情報を交換しながら、僕らは同じ夜を、別々の部屋で見張っていた。電話を切ると、また静かになった。きのこ農家は、孤独な仕事だと、こういう夜に思う。
午前一時すぎ、明かりが戻った。空調が低くうなりはじめ、加湿器が霧を吹きはじめる。発生室の扉を開けると、こもった空気がむわっと出てきた。温度計は十九度。予想より一度高い。けれど菌床は、見たかぎり、まだ大丈夫そうだった。安堵が、足の裏から上がってきた。
けれど、停電の影響は、すぐには分からない。数時間の高温が出方にどう響くかは、数日たって、傘の開きや軸の伸びに出てくる。明日でも明後日でもなく、数日後だ。だから復旧した夜は、終わりではなく、答え合わせの始まりだ。僕は燃料の備蓄を見直すメモを書き、停電に弱い品種と強い品種を思い浮かべながら、布団に入った。
あの夜、僕は学んだ。きのこ農家は自然と共に生きていると思っていたけれど、本当は電気で育てる農業の弱さの上に立っていたのだ。電気が止まれば、二十度も十六度も、ただの紙の上の数字に戻る。それでも僕は、明日もブレーカーを確かめ、温度計を読み、扉の前で迷うだろう。電気と菌のあいだで、僕の手仕事は続いていく。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。