編み直しの、座面
抜けた座面を解くと、前の職人の癖が出てくる

イカリヤソウ(52歳・籐家具職人28年)

新しい椅子を作る仕事より、直す仕事のほうが、近頃は多い。工房の戸口には、たいてい誰かの椅子が一脚、預けられて立っている。座面が抜けて、底のない枠だけになったもの。肘掛けの巻きがほどけて、籐の端がささくれて飛び出したもの。何十年も人の家にいて、その家の暮らしの分だけ傷んだ椅子たちが、最後にここへ回ってくる。椅子には記憶が宿る、とよく言うけれど、私が触るのは記憶ではなく、傷んだ繊維のほうだ。

修理は、まず古い編みをほどくところから始まる。これが、新しく編むより気を使う作業かもしれない。皮籐は何十年も体重を受けて、繊維が潰れ、飴色を通り越して黒く沈んでいる。そこに鋏を入れ、目を一つずつ起こしていく。乱暴に引けば枠の溝を傷める。溝が割れたら、編み直しても籐が止まらない。

解いていくと、前にこの座面を編んだ職人の手が、だんだん見えてくる。編み始めをどこに置いたか。網代の交差を右肩上がりに通したか、左肩上がりにしたか。緩んできたとき、どこで継ぎ足して誤魔化したか。本人はとっくにいないのに、編み目の癖だけが残っている。同業の手蹟を、私はほどきながら読んでいる。三十年前に死んだ職人の仕事を、私は今ごろになって初めて読んでいるのだと思う。

座面を全部解いてしまったら、骨組みを点検する。ここが肝心で、編み直しても、骨が傷んでいれば長持ちしないのだ。枠の接ぎ目を指で押す。緩んでいれば、にぶい遊びが指に来る。脚の付け根を捻ってみる。きしむなら、まず接合を締め直す。編みは最後だ。順番を間違えて、きれいに編んでから骨が緩んでいるのに気づいても、もう遅い。直す順番というのは、つまり信用なのだと思う。

骨が直ったら、新しい皮籐を裂いて、編みにかかる。ここで色の問題が出る。古い籐は飴色に深く沈んでいるのに、新しい皮籐は青白い。同じ座面に並べると、継ぎ目で色がくっきり分かれてしまう。揃わない色を、どう馴染ませるか。私は新しい皮籐を、編む前に薄い番茶でひと撫でする。それでも完全には揃わない。揃わないなりに、境目をぼかすのが私の仕事だ、と思っている。

張りの加減は、座る人に合わせて変える。だから採寸のとき、体重を聞く。失礼かと思いつつ、聞かなければ編めない。重い人の椅子を緩く編めば、座面が早く垂れて、また切れる。軽い人の椅子を硬く編めば、板に座っているのと変わらず、籐の意味がない。緩すぎず硬すぎず――その一点を、相手の体重と暮らし方から逆算して、編む手の力を決めていく。籐の家具が涼しいのは網代の隙間を空気が抜けるからだが、その隙間の広さも、張りで決まる。

回ってくるのは籐椅子ばかりではない。北欧家具の、肘や背に籐を張った名作。昭和の応接セットの、籐巻きの飾り。家具のジャンルはばらばらでも、籐の部分だけは、結局こちらへ回ってくる。木工の職人も、張り職人も、籐はやらない。籐は籐の人間が要る。そういう意味では、私はずっと、誰かの仕事の籐の部分だけを引き受けてきたのかもしれない。

納めた椅子に、数年してまた会うことがある。色の浮いていた継ぎ目が、まわりの飴色に追いついて、どこを直したか自分でも分からなくなっている。座面はまた少し沈んで、その家の体重をもう一度覚え始めている。直したところが消えて、椅子だけが残る。それでいい、と思う。

新品を一脚作るより、傷んだ一脚を解いて、骨を見て、順を守って編み直すほうが、私には性に合っている。何を直して何を残すかを決める――修理とは、結局そういう仕事なのだ。前の職人の癖を読み、色を馴染ませ、座る人の体重を編みに移す。その積み重ねが、椅子をもう何十年か生かす。直す順番を守ること、それがこの仕事の信用なのだと、解いた古い籐を捨てるたびに思う。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。