イカリヤソウ(52歳・籐家具職人28年)
椅子を作る前に、まず材料を仕入れる。籐は東南アジアの蔓だから、日本では採れない。インドネシアやマレーシアのジャングルで採られ、船に揺られ、何週間もかけて私の工房に届く。届くのは一本ではなく、太さごとに縛られた束だ。南国の遠い風を運んできたかのような、その束をほどくところから、私の一日は始まる。
束が届いたら、まず縄を切って中を見る。表に見えている蔓だけがきれいで、中はばらばら、ということがよくあるからだ。束の外側だけで判断してはいけない。問屋もそれは承知していて、良い蔓を外に巻く。だから私は、必ず縄を解いて、束の真ん中の蔓を一本抜く。そこが良ければ、その束はだいたい信用していいのだと思う。
等級の見方は、いくつかある。まず太さが揃っていること。同じ「中太」で縛られた束でも、一本ずつ転がすと太いのと細いのが混じっている。次に節と節の間隔――節間が長いほど、まっすぐ長く使える。節の近くは曲げると折れるから、節間の短い蔓は端材ばかり増える。それから色と、皮の艶だ。皮が生き生きと光っている蔓は、まだ繊維が締まっている。くすんで粉を吹いたようなのは、伐ってから時間が経って乾きすぎている。
仕入れがいつも安定しているわけではない。産地の国が輸出を絞る年がある。森を守るための規制だったり、自国で加工してから出すという方針だったりするが、こちらには理由までは届かない。届くのは「今年は値が上がる」「今年は細物しか入らない」という問屋の声だけだ。材料が来ない年は、来ないなりに工夫するしかないのかもしれない。
規制の年は、手持ちの束をにらんで暮らす。太物が手に入らなければ、太物を使う骨組みの仕事は後回しにして、細い皮籐で済む編み直しの修理を先に回す。あるいは、節間の短い半端な蔓を、これまでなら弾いていたものを、短い部材の要るところに使い切る。材料が潤沢なときには見えなかった蔓の使い道が、足りない年にだけ見えてくる。不足は、不足のかたちで職人を鍛える。
一脚の椅子の中で、籐は分業している。脚や枠の骨になるのは、太くて硬い丸籐だ。これは火で炙って曲げ、構造を受け持つ。座面や背を編むのは、丸籐の表皮を細く裂いた皮籐――しなやかで、何度交差させても切れない。太物は曲げに耐え、細物は編みに耐える。同じ一本の蔓から、骨と肌の両方が出る。仕入れのときから、私はこの一束のどこが骨になり、どこが肌になるかを見ている。
仕入れた蔓は、すぐには使わない。工房の奥に立てて寝かせる。籐は乾きすぎると割れる。逆に湿りすぎると黴びる。だから工房の湿度には気を使う。梅雨どきは戸を閉め、冬の乾く時期は土間に水を打つ。束は床に直接転がさず、すのこの上に少し浮かせて、風が抜けるように置く。床に寝かせた一番下の蔓だけが湿気を吸って傷む、というのを若い頃にやって、親方に叱られた。
近頃は、合成籐というものもある。樹脂を蔓の形に押し出したもので、雨に強く、屋外のガーデン家具に使われる。本物しか認めない、と言うつもりはない。屋外で何年も雨ざらしになる椅子に、割れる天然籐を使うほうがよほど無責任だ。素材には素材の居場所がある。私は天然籐の人間だが、合成籐の世界を否定はしない。ただ、私の指が覚えているのは、火を入れたときに匂いを返してくるほうの籐だ。
束をほどくと、籐は匂う。乾いた草のような、少し甘い、南方の植物の匂いだ。この匂いを嗅ぐたびに、私はまだ見たことのない遠い島の森を思う。けれど、それはあくまで素材の状態を知らせる信号でもある。匂いの強い蔓はまだ繊維に水気が残っていて、火曲げのとき粘る。匂いの飛んだ蔓はよく乾いて、ぱきっといきやすい。匂いは感傷ではなく、私にとっては検品の一部なのだ。
結局のところ、椅子の出来の半分は、火を入れる前の、この束をほどく時間で決まっている。良い蔓を選り分け、悪い蔓を弾き、骨と肌を見分けて、湿度を見て寝かせる。材料の目利きが、家具の半分なのだ。残りの半分が、火と手だ。仕入れを覚えて、私はようやく半人前から一人前に近づいたのだと思う。今日も工房の奥には、ほどかれるのを待つ束が、静かに立っている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。