核は強い。頭数からの逆算と「背中を走る冷たいもの」、孵化と芽吹きが揃わない春、朝露の禁忌、冬の畑で芽もない枝に鋏を入れる一刀。この四点は、この書き手にしか書けない手つきがある。問題は、その四点を作者が信用しきれず、両端を借り物の叙情で挟んでいることだ。冒頭で「大地と生きる」という既製の額縁を出し、末尾で「二重の暦を回すこと、それが養蚕なのだ」と主題を直叙して回収してしまう。畑仕事のエッセイは、土の手触りで嘘をついた瞬間に、全部が観念に見える。
「蚕を読む人間は、その前に桑を作る人間でなければならない。大地と生きるとは、たぶんそういうことなのだと思う。」
「大地と生きる」は、どの農業エッセイの冒頭にも貼れる汎用の額縁です。イマガワソラである必然がない。前半の「養蚕の半分は桑の畑にある」は具体で強いのに、その直後に観念の標語を足したせいで、せっかくの一文が説教の前振りに見えてしまう。額縁は要らない。畑の話を始めればいい。
「たぶんそういうことなのだと思う。」「祖父にはその音の濃淡が聞こえていたのだろうと思う。」(※後者はデビュー作の語り癖。本稿でも「想像して鋏を入れる」等、推量が逃げに転びがち)
逆算を毎年やり、足りるか足りないかを身体で決めている人間が、肝心なところで「〜と思う」「たぶん」と引く。これは怯えではなく、断言を避ける作者の保険に見えます。十四年やった人間の言い切りこそが、この声の価値です。語尾で逃げると、せっかくの逆算の恐怖まで嘘くさくなる。
「五齢の蚕一万頭が一日に食べる桑は、ざっと言って体重の何倍、という換算が頭の中にある。」
「体重の何倍」は、数字を出すふりをして数字を出していない。本当に頭の中にある人間なら、桑何貫、何kg、籠いくつ、という自分の単位で語るはずです。逆算の恐怖を書くなら、抽象的な倍率ではなく、「あと籠三杯で五齢が二日ある」というような、足りなさが目に見える量で書かないと、背中を走る冷たいものが読者には走らない。
「濡れた葉を食べた蚕は、腹を壊して下痢をし、座を汚し、病気を呼ぶ。だから露を含んだ葉は、与える前に広げて乾かすか、露が上がるのを待つ。」
禁忌の核は強いのに、理由を教科書のように並べたせいで、せっかくの場面が手順書になっている。「葉の裏に残った露の粒を指で確かめながら、まだだ、と自分に言い聞かせる」——この身体の一行があれば、下痢も病気も説明しなくていい。理由はすでに祖父の禁止と指の動作が運んでいる。説明はその値打ちを下げます。
「継いで何年目だったか、収穫前の枝が一晩の突風でなぎ倒され、翌朝の畑に立ち尽くしたことがある。」
「何年目だったか」「立ち尽くした」は、どの災害回想にもそのまま置けます。立ち尽くしている暇に、この人物は何を計算したはずか。倒れた枝が何日分の餌だったのか、棚の蚕が何齢で、明日の朝までに何が要るのか。立ち尽くす情緒ではなく、頭の中で走った逆算を書けば、災害は固有のものになる。縮葉病も「茶色く枯れ込み」で済ませず、縮れた葉が手の中でどう違うかが一つ要る。
「二重の暦を回すこと、それが養蚕なのだ。蚕を読むとは、桑を読むことでもあったのだと、いまの俺は思っている。」
これは完全な解説文です。冬の畑で「今いない虫のために、今、枝を切る」が、すでに二重の暦の全部を言っている。同じことを「二重の暦=養蚕」と抽象語で言い直すたびに、鋏を入れる一行の値打ちが目減りする。デビュー作の「俺をいまの俺にしてくれた」と同じ自己回収の癖が、ここでも出ている。主題を主題文として書いたら、それは要約であってエッセイではない。
「畑を見れば棚がわかり、棚を見れば畑がわかる。」
対句として綺麗すぎて、誰の畑でも誰の棚でも成り立つ標語になっている。綺麗な対句は、観察を一般論にすり替える時にいちばん出やすい。具体的に「畑のどの葉の残り方で棚の何齢がわかったか」を一つ書けば、対句は要らなくなる。
残すべきは四つ。頭数からの逆算と背中の冷たさ、孵化と芽吹きが揃わなかった遅霜の春、朝露の指の確認、冬の畑で芽もない枝に鋏を入れる一刀。削るべきは、「大地と生きる」の額縁、留保語尾、朝露の理由説明、そして「二重の暦=養蚕」の主題直叙。改稿では、逆算は「籠何杯」のような自分の単位で書き、災害は立ち尽くす情緒ではなく頭の中の逆算で書き、結びは標語ではなく冬の鋏の一刀で終わらせてください。意味は動作と量が運ぶ。標語が運ぶのではない。