核は強い。試し書きの紙に無意識に残る「これから書くはずのもの」、字を読まず形だけを見るという作法、香典袋を客から見えにくい棚に置く手つき、薄墨の線で手が止まること。この四点だけで一本立つ。問題は、書き手がこの四点を信用せず、夕暮れと匂いの書き割りで店を立ち上げ、最終段で「文房具は人生の暦」「私をいまの私にしてくれた」と全部を解説して回収してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、毎晩紙を取り替える店主を語り手にしながら、肝心の場面で手の動きが概念に置き換わっていること。商売のエッセイは、商売の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「あの一晩の癖が、私をいまの私にしてくれたのだと思う。今日も店を閉めるとき、紙を一枚、そっと取り替える。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、イマムラチヨである必然がない。道具の所作(紙を取り替える)で静かに締めるのも、すでにコウノ稿で使われた型の反復で、余韻の偽装です。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めてしまっている。
「夕暮れの店内に、鉛筆の匂いが静かに満ちる時間がある。」
夕暮れ、匂い、静けさ。三点セットで「情緒のある店」を安く調達しています。この書き手が本当に四十二年その店にいたなら、出てくるのは鉛筆の匂いではなく、レジの引き出しの建て付けの悪さか、自由帳の入荷が遅れる卸の名前か、名入れ機を温める時間のはずです。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。「鉛筆の匂い」は文房具エッセイで最初に疑うべき常套句です。
「もったいないような気がしたのだと思う。」「無意識に書いてしまうらしい。」「のぞき見ではない、と自分に言い聞かせているのかもしれない。」
四十二年、毎晩同じことを続けてきた人物の回想が「〜のだと思う」「〜らしい」「〜かもしれない」で満ちているのは、迷いの心理描写ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに「無意識に書いてしまうらしい」は致命的で、毎晩何千枚の紙を見てきたこの語り手なら、それは伝聞の「らしい」ではなく、四十二年で**確かめた**事実のはずです。断定が、観察の年月を証明する。
「自分の名前を練習した跡。ぐるぐると渦を巻いただけの線。「あいうえお」と几帳面に書いた人。どこかの住所の、丁目だけ。」
並べ方が均質すぎて、観察ではなく「試し書きにありそうなもの」のリストになっている。実際に毎晩見た人間なら、紙のどのあたりに字が集まるか(たいてい右上から、利き手の都合で)、ボールペンを試した跡と万年筆を試した跡で紙の凹み方が違うこと、同じ客が二度試して二度とも同じ字を書くこと——そういう、見た者にしか書けない一点が出るはずです。一般名詞の列挙は、見ていないことの告白です。
「買われていく文房具は、その人がいま人生のどのあたりにいるかを、静かに教えてくれる。文房具は、人生の暦なのだと思う。」
完全に解説文です。直前で、新学期の自由帳→履歴書用ペン→香典袋と薄墨、という配列がすでに「暦」を見せ切っている。それを「人生の暦なのだと思う」と抽象語で言い直した瞬間、配列の手柄が全部その一文に吸い取られ、安くなる。主題を主題文として書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。「静かに教えてくれる」の「静かに」も、コウノ稿から数えて何度目かの安全運転の副詞。
「店には一年と、一生とが、両方流れている。」
美しい対句に見えて、この一文は全国どの町の文房具店主の口にも、いや花屋にも仕立屋にも、そのまま置ける。イマムラチヨの店の固有名(売っている自由帳の銘柄、名入れ機の型、薄墨の筆ペンの仕入れ先)が一つもないので、対句だけが宙に浮いている。汎用の詠嘆は、どこの誰でもない者の声です。
「これを毎晩、店を閉めるときに新しいものと取り替える。」
試し書きの紙を毎晩まるごと交換する店は、まずない。インク代も紙代もかかる商売人が、まだ余白のある紙を毎日捨てるだろうか。実際は、紙が字で埋まったら替える、客が「汚い」と言ったら替える、万年筆コーナーと安ボールペンコーナーで紙の替え方が違う——そこに四十二年ぶんのケチくささと工夫があるはずで、それこそがこの人物の手つきです。「毎晩取り替える」という嘘の上に観察の話を乗せると、観察そのものが信じられなくなる。なお、「観察者になった」という言葉づかいも、店主の口ではなく作者の口です。
残すべきは四つ。試し書きに無意識ににじむ「これから書くはずのもの」、字を読まず形だけを見るという作法、香典袋を見えにくい棚に置く手つき、薄墨の線で手が止まる一瞬。削るべきは、夕暮れと匂いの書き割り、留保語尾、「人生の暦」「観察者になった」の直叙、そして毎晩全取り替えという嘘。改稿では、紙をいつ替えるのかを商売人の実際(埋まったら替える)で押さえて観察の土台を作り、「暦」は言葉で言わず、新学期の平仮名と薄墨の線を同じ一枚の紙の上で隣り合わせる一点で見せてください。意味は配置が運ぶ。説明が運ぶのではない。