核は強い。同じ袋を二枚買う年配の客(一枚は予備)、会社名で頼まれてメモを見ながら買う若い社員、そして「これだけは切らしてはいけない棚だ」という補充の論理。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、御霊前・御仏前・水引の本数といった作法の解説でカードを埋め、最後に「町の弔いの窓口なのだ」と自分で主題を貼って終わっていることだ。この語り手は、棚を四十二年いじってきた手の人である。手つきで分かることを、知識で説明してしまうと、店の人が消えて、マナー本だけが残る。
「だからこそ、選びやすい棚にしておくのが店の仕事なのだと思う。香典袋の棚は、いわば町の弔いの窓口なのだ。静かに迷う客の背中を、四十二年、私はこの棚のそばで見送ってきた。」
三連で締めにかかっていて、どれも自分で押した判子です。「店の仕事なのだと思う」で教訓を言い、「町の弔いの窓口なのだ」で抽象に逃げ、「四十二年……見送ってきた」で年季の感傷を足す。「窓口」は題そのものを言い換えただけで、読者がすでに分かっていることを作者が遅れて宣言している。「見送る」は弔いの場面に最初から乗っている安全な動詞で、イマムラチヨである必然がない。
「窓の外がどんよりと曇った日には、その静けさがいっそう深くなる。」
曇り空で弔いの気分を安く買っています。これは第二稿で消したはずの「春の柔らかな光」と同じ手口で、天気で場面の感情を肩代わりさせる癖が出ている。この棚に四十二年立ってきた人が本当に覚えているのは、空ではなく、香典袋の薄い紙が湿気を吸って棚の中でわずかに反ること、補充の箱の重さ、レジに置かれる袋の音のはずです。雰囲気が人物より先に立っている。
「どこかにあるのかもしれない。」「それも私の勝手な思い込みなのかもしれず、客はそんなことを気にしていないのかもしれない。」
棚の配置を四十二年自分で決めてきた店主が、自分の思想について「かもしれない」を三つ重ねるのは不自然です。慶事と弔事を離して置く——それは断定していい、その人の選択です。なぜ離すのかを動作や出来事で一つ示せば、留保はいらない。「気にしていないのかもしれない」と客に下駄を預けるのは、自分の店の思想を語るのが怖い作者の保険であって、この語り手の声ではない。
「その手つきを見ていると、この人はもう何度も、この棚の前に立ってきたのだと分かる。」
「慣れた手つき」「何度も立ってきた」は要約であって観察ではない。デビュー作で試し書きの紙の「右上から溜まる」字を見ていた人なら、ここでも具体が出るはずです——二枚目を取るとき迷わず同じ段に手を伸ばす、薄墨の筆ペンを見もせずカゴへ入れる、表書きの「御」の位置を訊かない。何を見て「慣れている」と判断したのか、その一手を書かなければ、年配客は概念のままです。
「本数は奇数が基本で、五本が標準、丁寧にするなら七本。結び方は、二度と繰り返さないようにという意味で、結び切りにする。蝶結びは何度あってもいい慶事のものだから、弔事には絶対に使わない。」
カード一枚がまるごとマナー本の引き写しになっています。これは検索すれば出てくる知識で、イマムラチヨが書く必要がない。読みたいのは作法そのものではなく、その作法を客に伝える店主の手つきです。「五本でいいですか」と訊かれて、棚から一枚抜いて水引を指でなぞって見せる——そういう動作の中に作法を溶かせば、知識は人物になる。御霊前/御仏前の段(第2カード)も同じ病で、解説が長く、客の姿が後ろに隠れている。
「香典袋は、誰も「好きで」買わない、たった一つの文房具だ。」「けれど香典袋だけは、誰かを見送るために買う。」
核として強い一文(「誰も好きで買わない」)を、すぐ次の文で自分で解説して値打ちを下げています。「鉛筆も、ノートも、万年筆も……始めるために買う/香典袋だけは見送るために買う」という対句は、よくできているぶん、説明的すぎる。この対比は補充の論理(「弔事は待ってくれない」)がすでに動作で語っている。主題を主題文で言い直すたびに、棚の前の沈黙が薄まります。
「知らなくて当たり前なのだ。誰も、香典袋の使い分けに詳しくなりたくて生きてはいない。」
言っていることは正しいが、これは弔いを語る誰の口にも置ける一般論です。気の利いた人生訓の顔をして、この店のこの棚の話から離れていく。同じことを言うなら、棚の前で固まった客に自分が実際にどう声をかけるか、その一言を書いてほしい。一般論は、具体の一手に化けて初めてイマムラチヨのものになります。
残すべきは四つ。二枚買う年配客(予備の一枚)、会社名でメモを見ながら買う若い社員、薄墨の筆ペンを黙ってレジに置く客、そして「切らしてはいけない/弔事は待ってくれない」という補充の論理。削るべきは、御霊前・御仏前・水引の作法解説の大半、曇り空の叙情、留保語尾、最後の「窓口」宣言。改稿では、作法は客とのやりとりの動作に溶かし、慶弔の棚を離す思想は「かもしれない」を外して言い切ること。そして結びは、説明ではなく一手で閉じてください。意味は、棚から一枚抜く手が運ぶ。解説が運ぶのではない。